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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第一節 地域開発施策の展開
    三 原子力発電所の新増設と地域振興
      原電立地の拡大
 原電立地の特徴は、二次冷却水の取水・排水の制約が少ない海岸線に大規模発電所が集中立地される点にある。また、安全上の問題と、地域振興の名目により地元の合意が取り付けやすいという理由から過疎地域への立地が一般的である。さきにみたように、県内最初の立地点である敦賀半島の二地点も、未整備のままの県道があるだけで住民の足は小型船舶が中心となっており、市街地に連絡する道路整備が住民の最大の願いとなっていた(第五章第一節三)。一九六〇年代後半に立地が進められた地域も、リアス式海岸によって複雑に彩られた若狭湾沿岸に点在する、「陸の孤島」と呼ばれる陸上交通の不便きわまる地域であった。いずれも原電立地の前提条件は、道路や橋・トンネルの建設であり、待望の陸上交通路が実現するという事実を前にして、国や立地企業が安全性を保証する以上、原電の立地は地元住民にとって歓迎すべきものであるとのむきが強かった。
 大飯郡高浜町の内浦半島、通称田ノ浦で関電による立地の動きが本格化したのは、一九六七年(昭和四二)春であった。すでに六五年には高浜町が県に誘致を陳情しており、翌六六年には町議会が原電誘致を決議していたが、用地買収対象の七地区のうち、対象面積の七割を占める小黒飯・神野・神野浦の三地区が林業や定置網漁業などの生業を失うとして買収交渉は難航した。しかし須知邦武副知事があっせんに乗りだし、翌六八年末には最後に残った小黒飯地区が売買契約を締結した。また六九年には地元四漁協があいついで関電と漁業補償協定を締結し、同年一一月に内閣総理大臣より高浜一号の設置許可がおり、つづいて七〇年一一月に二号の設置が許可された。
 大飯郡大飯町の大島半島吉見浜への原電誘致は、六九年一月の時岡民雄町長の県への調査願書提出にはじまり、同年四月には町と関電の間に極秘裏に「仮協定書」が結ばれ、その直後に町議会が原電誘致を決議した。七月には大島漁協と関電の間に漁業補償仮協定が、九月には土地売買契約が締結されるというように、誘致交渉はスムーズに進行した。しかし後にみるように、原電建設反対運動がおこり、とくに「仮協定書」の内容が町の関電に対する全面協力や問題発生時の肩代りを約束し、さらに旧本郷・佐分利村の生活用水である佐分利川からの原電による取水を認めるものであることが発覚すると、町長リコール運動がおこり、町政は大きな混乱をむかえる。
 関電は六八年には小浜市田烏の通称御所平への立地を働きかけ、鳥居史郎市長も地区住民も概して好意的な姿勢をみせた。しかし、この海域に漁業権をもつ内外海漁協が協力に反対し、これに市内の労働団体等が連帯したことから、七二年に市長は誘致断念を表明した。また敦賀半島では、関電美浜二号が一号に続いて六八年五月に設置認可となった後、さきにふれた動燃の新型転換炉原型炉「ふげん」が七〇年一一月に認可をうけた。さらに敦賀半島の敦賀市白木地区は、敦賀市街と直接連絡する陸路がなく三方郡美浜町丹生へつながる山道が唯一の陸路であったが、周囲の先行立地地区の開発状況に刺激されて動燃の高速増殖炉原型炉の誘致へと動き、七〇年五月から動燃の測量が開始された。
写真104 白木峠付近(1978年)

写真104 白木峠付近(1978年)
 一方、県は、原子力の安全性に対する懸念がしだいに高まるなかで安全確保対策と防災対策の確立を迫られた。六九年一月に県防災会議原子力防災対策部会を設置して県地域防災計画に原子力防災計画を組み入れ、さらに二月には県・関電・日本原電の専門技術者で構成される県環境放射能測定技術会議を設置、四月には同会議の調査報告や運転管理状況などについて協議する機関として、県・関係市町・各種団体の代表を構成員とする県原子力環境安全管理協議会を設置した。しかし、法制上原電の建設・運転・安全などの管理は国の一元的責任のもとにあり、県では技術会議の環境調査報告と国・企業からの一方的な連絡以外に情報はなく、また原子力に関する専門要員も皆無に近い状況で、県・立地市町の発言権は著しく制限されていた(『福井県の原子力』、『福井新聞』67・7・1、72・5・24、『毎日新聞』67・11・6、69・2・18、『読売新聞』68・3・30、70・5・5、『サンケイ新聞』68・4・23、『朝日新聞』69・9・12、10・2、11・12、72・6・21)。



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