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 第六章 「地方の時代」の諸問題
  第一節 地域開発施策の展開
    二 福井臨海工業地帯造成計画の軌跡
      臨工をめぐる局面の推移
 福井臨海工業地帯(臨工)の造成問題は、およそ三つの時期に区分される。
 第一の時期は、一九六九年(昭和四四)九月のマスタープランの公表にはじまり(第五章第一節二)、七三年九月の古河アルミニウム工業の製錬工場および古河・北陸電力の共同出資による共同火力発電所の立地協定調印を山場とする、計画の「推進期」である。
 臨工造成事業は敷地北側の北電福井火力発電所の建設(七〇年一一月起工式)から着手されたが、七一年には福井港が重要港湾指定をうけて運輸省の第四次港湾整備五か年計画に組み込まれることになり、国直轄および県単独事業として港湾建設が開始された。また事業用地の買収、造成等については「地方公営企業法」の規定を適用して業務処理することになり、七一年八月、県企業庁が発足し(企業管理者・森欣吾)、公営企業部と臨海開発部がおかれた。当初、実務は七〇年四月発足の福井臨海開発工業地帯開発公社に業務委託され、これが用地買収、補償に関する業務を行うとともに、七二年五月から防波堤工事、七三年一月から道路および緩衝緑地帯の工事に着手した。用地の先行取得事業の完了にともない同公社は七三年三月末日をもって解散し、以後事業はすべて企業庁において行われることとなった。一方、工場立地の具体化がはかられ、七二年二月、アルミ製錬・加工を中核としてこれを素材とする工場生産住宅およびその関連産業の誘致、六・五万トン級船舶の入港可能な港湾の建設などを内容とする、マスタープラン改定案が公表された。その後、アルミ製錬企業の誘致が模索され、結局アルミ圧延企業である古河アルミの工場誘致と、工場への電力供給を確保するための共同火力発電所の建設が決定した。この間、公害発生企業の誘致に対する住民の反対も強まり、古河アルミの立地決定にさいして反対運動は頂点に達した。

表147 テクノポート福井進出企業(1990年6月)

表147 テクノポート福井進出企業(1990年6月)
 第二の時期は、七六年一二月の古河アルミの製錬工場建設の断念以降、企業誘致が進まず、臨工造成事業が県政最大の難題となる、事業の「低迷期」である。
 第一次石油危機に端を発するアルミ不況により国内製錬工場の建設は不可能となり、県の当初計画は変更を余儀なくされ、臨工事業も大きな転換点をむかえた。石油危機後の不況期にあって他の企業誘致も難航し、造成用地売却により県債の元利返済を行うという当初の資金計画も大きく崩れた。そのため県は、一般会計をも巻き込んだ資金繰りと、雇用創出効果・生産誘発効果の乏しい石油備蓄基地をはじめとする新規事業の誘致に奔走することになった。
 第三の時期は、いわゆる「薄明期」である。八三年五月の古河アルミ圧延工場の竣工前後から、国内の景気回復にともない福井臨工に対する近畿圏を中心とする企業の工業用地需要が高まりはじめた。資金繰りもこのころからようやく息をつく状態となった。また、八一年四月の日本原電敦賀発電所の放射性廃液漏出事故以降、事業誘致や財政資金の獲得をめぐる福井県の国・電力会社に対する交渉力が高まったことも、臨工の事業展開に有利にはたらいた。この結果、中川県政最末期の八〇年代なかばには、県政の最大の焦点であった臨工問題はやや影を潜めるようになり、八〇年代後半にはバブル景気の影響をうけて企業の用地取得に拍車がかかった。表147および図64は、九〇年六月現在の臨工の造成状況と企業の進出状況を示したものである。以下では、まず「推進期」に生じた諸問題についてみてみよう。
図64 テクノポート福井

図64 テクノポート福井




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