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 第五章 転換期の福井県
   第三節 変貌する諸産業
     四 合成繊維への転換
      工賃ブームと合繊の進出
 県下の織物業の景気回復は、一九五八年(昭和三三)秋からの生糸価格低落と欧米諸国の景気好転にともなう絹織物輸出の増大からはじまった。これに対して人絹織物は、主たる輸出先であるアジア、アフリカ市場の不調もあり輸出が停滞し続け、五九年はじめから、むしろ内需に主導されたブームを展開した。原糸メーカーの操短にもかかわらず五八年末から人絹糸価格が漸落し戦後最低の水準となったのに対し、他方で織物価格が高水準に転じたことから、人絹織物生産の採算が好転し、賃織工賃の上昇をともなった工賃ブームとなった(図62)。これにより、朝鮮戦争ブーム後、長い間業界を覆っていた慢性的な不況の暗雲は一掃されることになった。
図62 人絹糸・織物相場、工賃(1958〜61年)

図62 人絹糸・織物相場、工賃(1958〜61年)

 しかしながら、このブームの背後には、人絹にかわる新しい繊維素材としてアセテート、各種の合繊が登場し、有力機業を中心にこれらへの転換をはかる動きが本格化したという事情があった。したがってこの期の人絹工賃の上昇は、合繊への転換が本格化するなかで生じた人絹製織スペースの不足によるものであり、人絹にとってはいわば後向きの好況であった。
 これら新素材の浸透の状況をみてみると、まずアセテートは、帝人・日窒アセテート・三菱アセテートなどの工場新設があいつぎ、五八年に入り原糸の品質向上と価格引下げが行われるとともに、トリコット肌着等の用途が確立した。またナイロンは東レ・日レの二社によって生産されたが、ウーリー(東レ)、ストレッチ(日レ)といった伸縮加工糸を使用したトリコット製品、エラスチック織物が人気を博し、またタイヤコード用の生産も急増し、五八年以降長繊維生産の比重が著しく高まった。ポリエステルは、五八年に東レ・帝人の二社による統一商標「テトロン」として生産され、シャツ・ブラウスなど混紡製品、ウォッシュ・アンド・ウェアを売り物とした薄物上着などで、急速に浸透した。このほかに倉レ・日紡のビニロン、鐘淵化学・日本エクスラン・三菱ボンネル・旭化成によりスタートしたアクリル系繊維など、さまざまな合繊の生産が開始されたが、長繊維織物産地である福井県に浸透したのはアセテート、ナイロン、ポリエステルの三種であった。
 これら新素材の原糸メーカーは、原糸生産設備の増設とともにメーカー・ブランド品(いわゆるチョップ品)による販路の確立をめざし、産地の優良機業の確保に力を入れた。機業の側でも、有力機業を中心として、人絹の先行きに見切りをつけ、あらたな製織契約を模索する動きがめだちはじめ、既存の系列からの離脱もやむなしとする所も現われた(木村亮「合繊転換期の産地織物経営」『福井大学教育学部紀要(社会科学)』49)。こうした系列再編の動きをとらえて、五九年六月、福井経済同友会は、最終製品の競争力の強化をはかるために原糸メーカー・商社・機業・染色加工の四部門が対等かつ密接な協力関係を結ぶ「生産共同体」(プロダクション・チーム)の形成を提唱した。五九年一二月には、東レのプロダクション・チームとして東レ合繊織物会が発足し、その他のメーカーも同様な試みに乗りだすことになった。
 工賃ブームは六〇年末まで続いた。人絹のスペース不足から生じたメーカー・商社による機業の争奪戦はし烈をきわめ、零細機業の参入もふえ、織機登録制による増設禁止措置にもかかわらず、他県からの権利購入による織機増設やヤミ増設が急増し、六〇年秋には早くも県下の織機台数は五八、五九年度に実施された織機買上げ以前の台数を上回ったといわれた。さらにこの期の設備拡張は生産性の改善をともなうものであり、五九年二月末に六割以上を占めていた半木製織機は、六〇年一〇月末には五割を大きく下回り、鉄製織機への転換が急速に進んだ(『福井県の繊維産業生産の動き』)。また準備部門ではサイジング・マシン、撚糸機、関連部門ではトリコット機、レースラッセル機など、量産設備が急速に普及した。さらに、二部制実施工場が急増し、五八年末の約六〇工場から五九年末には三三一工場、六一年四月には五七七工場を数えるにいたった(『景気動向資料』59・7・24、『日刊繊維情報』61・6・7)。



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