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 第五章 転換期の福井県
   第三節 変貌する諸産業
    一 農業の近代化と兼業化
      労働力不足と農家の対応
 兼業化とそれにともなう農業労働力の高齢化・女性化は、全国平均を上回る勢いで進んだ。そのため、福井県の農家には早い時期から深刻な労働力不足が生じることになった。たとえば一九六二年(昭和三七)時点で、すでに農業労働力の不足がめだちはじめたと報じられており、その結果農作業への雇入れの需要が高まって、「三年前までは田植えや稲刈りで一日男五百円、女で四百五十円でよかったものが、昨年は男、女とも八百円になり、ことしは千円でもきてがない状態」という農業労賃の高騰を招いていた。そして、こうした事態への対応の一つとして、耕耘機の導入によって水田耕作面積の七二%までが耕耘されるようになるとか、除草剤の使用が三年間で面積にして一四倍(水田の四四%)に増加するなど、農作業の省力化を求める動きが強まることになった(『福井新聞』62・9・7)。さらには、勤めに出る男子にかわって農作業に従事する多くの女子に、一日平均一一時間をこえる労働の負担がかかり、その結果、腰痛・肩こり・息切れ・手足のしびれなど「農婦症」と呼ばれる深刻な健康障害が問題視されることにもなった(『中日新聞』65・6・14)。
 農業労賃の高騰はその後も続き、六〇年代の終わりには、県平均で、田植えで男子一日一八四〇円、女子一六二〇円、防除で男子一日一七〇〇円、女子一三三〇円、稲刈りで男子一日一七八〇円、女子一四九〇円という水準にまで上昇した(『福井新聞』70・5・27)。とくに、田植時の労働力不足はもっとも深刻で、労賃に加えて平均で六六〇円最高で一五〇〇円程度の「まかない料」を支払っても人手が得にくく、他市町村からの雇入れや島根・鳥取など他県からの雇入れも行われるほどであった(『福井新聞』70・5・11)。
 こうした労働力不足への対応として、六〇年代には、農家間の労働交換などの増加や、水稲集団栽培と呼ばれた共同作業の拡大がめだった。すなわち、農業センサス結果によって農業雇用労働の推移をみると、六五年から七〇年にかけて、農業臨時雇は、戸数・のべ人数とも減少したのに対して、労働交換である「手間替・ゆい」と無償の労働提供である「手伝い」とは、戸数・のべ人数とも増加した(表131)。また、六〇年代のはじめから全国的に提唱されてきた水稲集団栽培は、トラクター等の高性能農業機械の共同利用、田植・稲刈りなどの共同作業を生産組織単位で包括的に行う栽培形態であったが、福井県においても六五年ころから普及がはかられ、六八年には、集団数一七四、参加農家四〇一二戸、面積四七二〇ヘクタール、水田面積の約一割まで普及することになった(『福井県農業の動き』六五〜六八年版)。

表131 農業雇用労働

表131 農業雇用労働
 これらはいずれも、自家労働力の多くを兼業に振向けた結果生じた農業部門の労働力不足を、労働の交換や共同作業によって補おうとするもので、六〇年代のつぎのような条件のもとで示された福井県の農家の対応であったといえる。つまり、一方には農業の近代化が進んだとはいいながら、依然として田植や稲刈りなど手作業による集中的な労働が残され、また、トラクター等の農業機械も性能や価格の点で共同での導入や利用が不可避であったという生産面での条件があった。他方には、兼業化はたしかに六〇年代を通じて急速に進んだが、それはまだ、農業部門で必要な労働交換や共同作業にある程度対応可能な部分が残ったということ、すなわち臨時雇用や自営など農作業への出役が可能な兼業形態が少なくなかったという条件があった。これらの条件は、七〇年代に入ると、田植機・コンバインなどの普及と機械化一貫体系の確立、恒常的賃労働の一般化などによって崩壊し、かわって農業経営の個別化や請負耕作がめだつようになっていく。表131の七〇年から七五年への推移もこれを示唆している(第六章二節二)。



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