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 第五章 転換期の福井県
   第一節 「夜明け前県政」と産業基盤整備
    二 産業基盤整備の進展
      日本横断運河構想
 北知事の在任期間は高度経済成長の前半期にあたり、産業基盤整備のための大事業が次々と行われた。北知事自身が『福井県総合開発計画書(改訂版)』のなかで一九六一(昭和三六)年の総合開発計画からわずか三年の間に、福井空港の建設、北陸自動車道の法制化、原子力発電の誘致、日本横断運河調査の政府予算化、奥越大電源開発着工などが実現したとして開発が順調に進むようすを誇らしげに語っている。ここでは日の目をみなかった日本横断運河構想と、基盤整備を進める重要な契機となった第二三回福井国体について簡単にふれておこう。
 北知事はスケールの大きなことを語るのが好きで「大風呂敷」と呼ばれる側面があったが、なかでも日本海と太平洋を運河でつなぐという構想は、結局実らなかったが、いかにも彼らしい大構想であった。運河構想の起源自体は古いが、五九年の四月にセントローレンス運河が完成し、これに触発された各方面の議論に示唆をうけて、北知事が積極的に関係府県との調整をはかるとしたことから本格化した。当初は、敦賀から琵琶湖を通じて淀川を下る阪敦運河構想であったが、当時の平田佐矩四日市市長が熱心であったこともあって、運河計画は伊勢湾より揖斐川を北上し姉川経由で琵琶湖に出、塩津浜より敦賀にむけて開鑿するというものになった。パナマ運河のようなロックゲート方式で水位を調整して日本海と太平洋をつなぐという大構想である。運河の幅により総工費二五〇〇億円から三五〇〇億円というものであった。関係五県三市(愛知・岐阜・三重・滋賀・福井、名古屋・敦賀・四日市)などで建設期成同盟会が結成され、自民党副総裁だった大野伴睦が会長となった。六三年には政府予算の調査費一〇〇〇万円がついたが、それ以降、大野副総裁、平田市長が死去し、北知事、畑守三四治敦賀市長も落選するなどで推進の中心人物を失い、急速に下火になり、ついに七〇年にいたって中部圏開発整備本部により調査の打切りが発表された(『福井新聞』59・6・14、62・7・1、12・31、68・6・30、70・11・14、『朝日新聞』64・5・30、『産経新聞』70・5・21)。



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