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 第四章 高度産業社会への胎動
   第二節 地域振興と県民生活
     二 道路・鉄道の改良と河川改修
      北陸線の電化
 北陸線の輸送量は、戦後の北陸地方の産業の復興と、東北、北海道の開発により、著しく増加し、一九五〇年(昭和二五)から五五年の五年間に三倍以上となった。このため、単線でかつ滋賀県境と敦賀・今庄間に一〇〇〇分の二五という急勾配区間をもつ北陸線は、五六年には列車輸送能力の限界をこえることとなった。五五年一一月、この事態に対応するため、国鉄は、当時D五一型蒸気機関車二台で一貨物列車あたり七〇〇トンの貨物輸送が限界であった中ノ郷・今庄間に、最新鋭のディーゼル機関車を配属し、機関車三重連による一〇〇〇トンけん引を開始した。しかし、貨物増には対応しきれず、五六年七月には、金沢鉄道管理局管内で抑制列車は三六本を数え、駅頭滞貨は二万八〇〇〇トン(対前年比一七八%)にのぼり、両区間の複線電化による改良工事は緊急のものとなった。
 敦賀駅と木ノ本駅(滋賀県)の間は、県境の柳ケ瀬トンネルを挟んで一〇〇〇分の二五の急勾配が七キロメートル続く難所をかかえ、すでに三八年には木ノ本駅より分岐し、深坂を経て敦賀にいたる新線の建設工事が着手された。戦争などにより四四年には中断、戦後再開されたものの、難工事と資金難のため、五三年には深坂トンネルは完成したものの、おりからの緊縮予算の煽りをうけ、工事はふたたび中止されていた。しかし、前述のように輸送力が逼迫するなか、五七年には工事は再開され、同一〇月には新線が完成、米原・敦賀間が交流電化された。従来線は、大型の補助機関車の後押しにより、三五両の貨車を時速二〇キロメートルで輸送するのが限界であったが(柳ケ瀬トンネルでは急勾配による失速のため、乗務員の窒息事故が頻発した)、新線では勾配も一〇〇〇分の一〇に抑えられ、交流電気機関車一台で五〇両の貨車をけん引して、時速五〇キロメートルの運転が可能になった。
写真76 北陸線敦賀・福井間の電化

写真76 北陸線敦賀・福井間の電化

 敦賀・今庄間の勾配改良については、五二年以来、国鉄金沢改良委員会を中心に検討が加えられた。そこでは、現在線のルートを生かして盤下げ複線化を行う案と、敦賀・今庄間を一三キロメートルの隧道で直結する案、木ノ本・今庄間を一八キロメートルの隧道により直結する案などが比較検討され、技術的には一八キロメートル隧道案が有力であったが、最終的には敦賀市をとおる一三キロメートル隧道案が採用された。五七年一一月国鉄の技術陣を総動員して延長一三・八七キロメートル(当時日本最長)の北陸トンネル工事が開始され、最新鋭の全面掘削機も投入され、昼夜兼行の作業の結果、六二年三月完成した。ついで六月一〇日、北陸トンネル経由の新線が開通し、敦賀・福井間が電化された。トンネルの開通により、敦賀・今庄間は七・二キロメートル短縮され、勾配も一〇〇〇分の一二に緩和され、電気機関車一両で一〇〇〇トン輸送が可能となった。また、時間も大幅に短縮され、初登場の大阪・金沢間ビジネス急行「越前」は三時間余で福井・大阪間を結ぶことになった。六一年一〇月のダイヤ改正で、北陸線に初登場したディーゼル特急「白鳥」は一〇分以上の短縮となり、福井・大阪間三時間のカベを破った。通勤列車では、今庄止りの列車がすべて敦賀まで延長され、敦賀・福井間は約一時間一〇分程度となり、一時間余の短縮となった。
図46 敦賀付近交通要図

図46 敦賀付近交通要図




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