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 第四章 高度産業社会への胎動
   第二節 地域振興と県民生活
    一 産業振興と水資源開発
      水没補償問題
 真名川開発事業の用地として買収され、水没した区域は、笹生川ダム関係が大野郡西谷村上秋生・下秋生・小沢・本戸の四集落、雲川ダム関係が巣原・熊河・温見の三集落の地籍にわたった。うち水没した集落は上秋生・下秋生・小沢の三集落で、笹生川ダムサイトの本戸も生活が成り立たないとして水没集落に準ずる扱いとなり、水没地住民は合わせて一一〇戸、六二八人であった。
 一九五二年(昭和二七)六月、水没地住民側は「笹生川ダム建設による移転対策協議会」を設け、陳情六原則と三一項目の要望事項を県に提出し、県と住民側との折衝が開始された。五三年五月に建設事務所内に補償課が設置されて本格的な基礎調査と交渉に入った。補償調査は住民代表の立会いのもとに行われたが、評価をめぐって意見対立が頻繁に発生し、なかなか進捗をみなかった。また小沢には、「むつし」と呼ばれる山林共有地に慣行的に土地の占有権が設定されていた。この権利の継承・移転が村の役員の管理する「むつし帳」に記録されており、全国各地に散在する権利所有者と補償交渉を進める必要があった(『福井県真名川ダム農地山林水没補償の研究』)。
 五四年六月より本格的な補償額の提示へと交渉は進んだが、住民側要求額一〇億五〇〇〇万円に対し県側の提示額は二億八〇〇〇万円と開きが大きかった。前年一〇月に知事の諮問機関として設置された補償委員会が五四年一〇月に補償総額三億七〇〇〇万円の正式答申を行ったが、住民側の了解が得られなかった。県は県議会議員、地元村長ら四名をあっせん委員に委嘱し、五五年一月一七日、総補償額四億円で妥結、調印をみた。
写真74 水没前の西谷村秋生地区

写真74 水没前の西谷村秋生地区

 一方、この補償交渉と関連して計画された、水没地住民の集団移住による木の本原開拓事業も難航した。木の本原地区は四七年に第一次開拓計画を樹立して一五戸が入植し、五三年には笹生川ダムによる潅漑用水を利用した開田のための用地買収が行われていた。こうしたなかで水没地住民の集団移住計画が持ち上がり、五四年度より、三四七・六町歩を国が買収し、土地改良事業を行い、水没地住民一〇八戸、既入植者一六戸、地元増反者七五〇戸に配分する事業計画が立てられた。建設省所管の事業による水没地住民の移住対策として農林省所管の開拓事業を行うことに農林省が難色を示したため、表103のように総工費に対する国庫補助は一三・三%しか得られなかった。さらに、農林省は事業認可のさいに相当額の地元経費負担を条件としたが、当初県がこの付帯条件を秘していたため、地元増反者と県の間で県費支出をめぐって紛糾した。また、水没補償問題が解決すると、集団移住者が三二戸に減少し、彼らへの配分予定地が田畑九七・一町歩から二二・八町歩になったため、計画変更と地元地権者に対する増反配分が行われ、この点も地元負担増でもめる背景となった(『木の本原開拓史』)。
 なお、水没地住民の移住先は、大野市(六五戸)、福井市(二五戸)が多くを占めたが、県外に出た者も一一戸を数えた。また移住後の就職状況については、農林業を継続する者は四〇戸にとどまり、多くが各種サービス業へ転出した(『真名川総合開発』)。

表103 木の本原開拓事業資金の内訳(1954〜58年度)

表103 木の本原開拓事業資金の内訳(1954〜58年度)



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