目次へ  前ページへ  次ページへ


 第四章 高度産業社会への胎動
   第一節 県政と行財政整備
    三 町村合併の促進
      越県合併
 大野郡では、自治庁裁定の末越県合併に発展する事例がおきた。県試案は大野郡上穴馬村、下穴馬村、石徹白村の三か村合併であった。一九五四年(昭和二九)一一月には石徹白村の村長、村議会議員の過半数が三か村合併に同意し、三か村合併協議会を設置したが、その後村内工事執行をめぐる政治紛争のため、合併への動きは行き詰まった。石徹白村は五六年三月には冬期交通上の悪条件などを理由に、三か村合併を忌避し独立残存を主張した(『福井新聞』56・3・24)。県はこの要望を認めず試案どおりの三か村合併を勧めた。その後、町村合併促進法が失効する五六年九月末日を目前にして、石徹白村と岐阜県白鳥町との越県合併の動きが具体化した。県はこれを認めなかったが、とりあえず上穴馬村と下穴馬村を合併させて九月三〇日に和泉村を設置した。白鳥町は石徹白村への働きかけを積極的に続け、石徹白村の指導者は越県合併に傾いた。
 石徹白村は廃藩置県前は郡上藩に属し、白鳥町とは人情、風俗の点で共通点が多く、結婚縁組はほとんど白鳥町方面であり、冬は村の若者の多くが岐阜県に出稼ぎに行くという深いつながりがあった。冬期の交通は、下穴馬村に通じる唯一の県道が雪で途絶するため、桧峠を越えて岐阜県に出るのが唯一の方法であった。県は石徹白村の動向を知り、その説得につとめた。九月八日に知事は石徹白村長に「独立村として残存を認める」趣旨を伝え、翻意を要望した。しかし、村内では、県が最初に県試案どおりの三か村合併を勧めたときの強い姿勢に対する反発が強く、独立残存の決定も時期を逸した感があった(『福井新聞』56・9・19、10・22)。
 石徹白村長と村議会は九月一六日に白鳥町で合同会議を開き、五七年二月一日に白鳥町に編入するとの合同決議を行った(『福井新聞』56・9・17)。県は、この越県合併を認めないこととして合併申請書を保留し、県議会は九月二九日第七三回定例議会において、越県合併反対を満場一致で議決した。県が越県合併に反対した最大の理由は、分水嶺を越える越県合併は福井県の広域行政遂行に重大な支障をおよぼすということであった。石徹白村は九頭竜川水系の重要な水源地帯で、これを岐阜県所属とすると越前平野の治水を確保するための本県の治水計画を途絶させ、河川を荒廃させる恐れがあり、水防上決定的な打撃をうけるとの考えにもとづくものであった。このほか、奥越地区総合開発に重大な支障を生ずること、福井県の歴史および伝統ならびに県民感情を無視すべきでないこと、石徹白村は福井県において独立村として十分な発展が可能である、などをあげていた(資12下 八六)。
 中央では、新市町村建設促進中央審議会の小委員会が、五七年の五月と七月に現地での調査を行い、検討を進めた。委員会は福井県の主張する河川行政の一貫性については建て前上望ましいことに違いないが、他の府県の例に照らしても絶対的なものとは認められないこと、および村民大多数の賛成があり、合併によって本地域の発展が期待され、石徹白村を独立村として残すよりはむしろ白鳥町と合併した方が村民の将来の福祉向上に資するものと認め、合併は適当であるとの結論に達した。
 五八年三月二五日に、新市町村建設促進中央審議会はこの越県合併を適当とするとの答申を出した(『福井新聞』58・3・26)。県はこれに反対したが、このまま放置すると石徹白村のすべての地域が越県合併ということになる。そのため、和泉村に隣接している三面、小谷堂の二つの地区の住民は、六月一四日に分村して本県に残りたいという申請を関係機関に行った。八月一九日の閣議で、「石徹白村の三面、小谷堂の二部落を福井県に残し、残りの部落は岐阜県に合併させる」という自治庁の裁定を了承した。この決定に対し、県議会のなかには反対する空気があって結論が出なかったが、知事は九月三日にこれを受諾することを表明した。そして、一〇月一四日に石徹白村の三面、小谷堂を和泉村に編入し、一五日に石徹白村が岐阜県白鳥町に境界変更された(資12下 八七)。



目次へ  前ページへ  次ページへ