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 第四章 高度産業社会への胎動
   第一節 県政と行財政整備
    一 小幡県政と羽根県政
      羽根県政
 羽根知事の在任期間(一九五五年四月〜五九年三月)は地方財政のもっともきびしいときであった。一九五四年度(昭和二九)より大蔵省は財政緊縮方針をもって予算編成を行い、五五年には赤字に転落した自治体を救うための「地方財政再建促進特別措置法」が成立し、多くの地方自治体が再建団体となった。
 福井県自体はかろうじて黒字を保っていたが、それは、国庫補助、起債、交付税交付金といった依存財源に依拠してのことであった。そのため、中央に対して健全財政を維持せんとする姿勢を示さねばならず羽根知事は行政機構改革を断行するのである(第四章第一節二)。行政機構の整理縮小は当然ながら人員の整理に結びつく。羽根は総務部長に当時三八歳の地方課長であった森欣吾を抜擢し、古参部課長の勇退勧告にあたらせた(『福井新聞』55・12・2、4)。小幡に処遇を依頼された門田農林部長も五六年一月、辞表を提出している(『福井新聞』56・1・21)。この時に辞職した部長級職員は門田だけでなく、戦後の県政を支えてきた大物部長が多数退職した。これは、そのころ地方自治法が改定され部長職にも定年制が導入されるといわれており、当時五五歳をこえていた者は辞職せざるをえない空気があったことや、おりからの経費節減、人員整理の流れと合致したということもあるが、門田に対するそれなりの処遇を約束したということなら特別職への起用がありえたわけで、これを退職に追い込んだのは、小幡亜流といわれることを嫌った羽根の明瞭な選択である。この選択は小幡との対決姿勢を鮮明にしたことを示し、羽根の政治生命にとっては致命的なものとなっていく。
写真67 羽根盛一

写真67 羽根盛一

 政治的な能力をもつ大物部長たちの退任は理事者側と県議会との調整に問題を生んだ。知事本人にこうした能力があれば良かったのかもしれないが、いささか不十分であったようである。羽根知事には県議会との間で調整がつかず、企図したが実現できなかったという政策がいくつかある。五七年に否決された農民会館建設費補助問題や、五七年にいちおう設置したが、五八年度予算を議会が認めず解散せざるをえなかった新政策懇談会の問題などがあげられる(『県議会史』4)。結局、羽根は副知事はおかず、前国鉄職員の桜川行夫という人物を知事特別秘書に任命し側近として使ってきた。その後、五八年三月に、自分の苦手な県議会対策の巧みな人物として、県議会議員山本治を副知事に任用しようとしたが、これも県議会の反発と本人の辞退で実現しなかった。この不手際の責めを負って桜川秘書も辞任した(『県議会史』4)。
 小幡と比べると、財政的状況の最悪の時期に際会した不運もあるし、また、県議会議員たちも三期目ともなると政治的力量を蓄積してきたのであろうから、ひとり羽根の不手際だけではなかったのかもしれないが、政治家には不向きの人物だったようである。それにしても、一度ならず二度までも「ナンバー2」に裏切られた小幡の人物鑑定眼についても若干の疑問は残る。



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