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 第四章 高度産業社会への胎動
   第一節 県政と行財政整備
    一 小幡県政と羽根県政
      参院選出馬と後任人事
 小幡が中央政界に進出する機会は一九五五年(昭和三〇)にめぐってくることになった。第二回参議院議員選挙で当選していた堂森芳夫が同年二月に行われた第二七回衆議院議員選挙に出ることになり、補欠選挙が行われたのである。その前に五三年四月の第三回参議院議員選挙に出馬の動きをみせたこともあったが、任期途中で知事職を投げ出すのか、という批判があり、戦前よりの有力政治家であった酒井利雄が立つということもあって、この時は断念した(『福井新聞』53・2・27)。五五年には、ほぼ二期目の任期を終わろうとしている時期であったから、こうした批判もなかったのである。
 二期目の小幡県政は、震水災を契機に国から獲得した各種の補助金を復旧にかかわる土木工事につぎ込み、巧みに小幡県政の一枚看板であった農地乾田化事業に結びつけていったこと、および福井県総合開発事業の嚆矢としての真名川開発事業計画を策定し着手したことが特記される。災害復旧債で巨額の起債を認めさせ、引き続いて土木債の起債をも中央に認めさせることで福井県財政の赤字転落を阻止した。国庫補助と起債により大がかりな工事を行って、それを自らの政治的基盤に結びつけていくという手法は、戦後の成功した知事に共通する手法であるが、小幡はこれをかなり手際よく行った知事であったといえるだろう。
 小幡は県庁を去るにあたっては、自らの後任について迷った末、羽根副知事を指名した。県庁を去るといっても福井県選出の国会議員としての将来の再選を考えたとき、県知事には自らの盟友となるべき人物をおかなければならないと考えたからである。ただ、この時の知事選挙には北栄造がふたたび出馬するため、小幡の後援者たちのなかには県民に知名度もなく地味な羽根よりも、農村部に顔を知られ人気もあった門田農林部長を立てなければ選挙に勝てない、という声もあった。小幡は最終的には羽根を知事候補とした。門田には羽根の選挙戦への協力を誓わせ、羽根には知事就任後の門田の処遇を約束させるという調整を行ったということである(土田誠『四人の知事 戦後の福井県政四十年』、『福井新聞』55・1・1)。
 これにより、羽根は小幡が培った農村部の地盤を譲り受けることとなり、かろうじて北を押さえ、五五年四月二六日、第三九代知事に就任した。県議会で取り上げられるほどの露骨な選挙運動をした門田の協力がなければ、当選もおぼつかなかったに違いない(『県議会史』4)。選挙前には保守系二党の推せんや県下のありとあらゆる団体の推せん・支持をとりつけていたので、断然優位と思われた選挙であったが、その差一万七〇〇〇票にまで詰め寄られて薄氷を踏む思いをしたのである(『福井新聞』55・4・25)。



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