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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    二 教育行政の民主化
      教職員組合
 敗戦当時、唯一の公認された全国的教員団体は大日本教育会であった。しかし、その構成は文部大臣・知事等が主要ポストを占める中央集権的組織で、翼賛体制の一翼を担ってきたものであった。一九四六年(昭和二一)、日本教育会と改称し独立体としての各都道府県教育会の連合組織に改編したが、同年二月の公職追放令による幹部の追放・組織問題で揺れ、その機能は著しく低下していった。一方、各地ではインフレに対する生活防衛、敗戦を契機に新しい教育のあり方を模索すべく急速に教員の組織化が進行していった(武生町立高等女学校文書)。
 福井県では、四六年四月に福井市国民学校教員組合が結成され、以降、五月には大野・三方郡、六月には南条郡など各郡市国民学校で組合結成が進み、同年九月には福井県国民学校教職員組合連合会が結成された。これと並行し、同年七月に福井県中等学校教職員組合、福井県青年学校教職員組合が結成され、同年一二月に国民学校・青年学校・中等学校組織の連合体として福井県教職員組合連合会(県教連)が結成された。県教組の母体である。代議員会を最高機関としたが、その構成において、中等学校は一般教員であったのに対し、国民学校・青年学校のほとんどが校長であったことが、その後の闘争で足並みが乱れる一因となった。
 当時中央では四五年一二月の全日本教員組合(全教)をはじめ全国組織が誕生していた。全教は、四六年五月全日本教育労働組合(全教労)と改称し、賃金問題を中心に果敢な政治闘争を展開する一方組織拡大を続け、全日本教員組合協議会(全教協)となった。これに対し批判勢力は四六年七月に教員組合全国連盟(教全連)を結成しさきの全教協と並び立つ全国組織となった。
 福井県では、四六年一一月に福井市国民学校教員組合が穏和な路線をとる教全連への加入を決定しており、県教連も四七年一月に教全連加入を決した。おりから焦点となったのが四七年の二・一スト問題であった。政府は教員組合の分断をもくろんで教全連寄りの姿勢を示したため、ゼネストに対し全教協はスト決行、教全連はスト不参加を打ち出し、県教連も教全連の方針にしたがい対県交渉の強化を採択したもののスト不参加を決した。
 焦点の二・一ストはマッカーサー指令によって中止にいたり、組合運動の挫折と新学制の実施を迎えるなかで全教協・教全連はそれぞれ三月に文部大臣と労働協約を締結し、この動きは全国に波及した。全教協と教全連は四七年六月に路線をめぐる対立を内包しながらも合同し、日本教職員組合(日教組)を結成した。福井県でも同月に従来の連合体組織から単一体組織として福井県教職員組合(県教組)が結成され、八月に知事との間に労働協約を結んだ。これと並行して従来の教育会組織の教員組合への一体化が進み、福井県でも四八年に県教組に吸収された。発足して間もない日教組が直面したのは教員の認定講習問題であった。県教組も日教組の指令にもとづき講習参加拒否を決定し、当局との交渉で「教員再教育夏季講習会」とすることになった。しかし、こうした強力な闘争を展開しはじめた組合運動に対し、総司令部は当初の保護・育成の姿勢を転換し、本来のあるべき組合運動を逸脱したものとして監視・規制の動きを強めていった。
 四八年七月の政令二一号によって公務員の団体交渉権の否認・争議行為の禁止が決定され、組合運動は大きな打撃をこうむった。そこで、組合はおりから発足準備中の教育委員会へ教組出身者を送ることで失地回復をはかったが、総司令部はこれを教員による教育支配ととらえ阻止の動きをはじめた。福井県では四八年の初の県教育委員選挙候補者への応募者二三名中、二二名が教員あるいは元教員で占められたため、軍政部は婦人団体や青年団に立候補を呼びかけた(「月例報告書」)。最終的な届出者四三名のうち、選挙資格を承認された者一二名、そのうち教職員組合員はわずかに二名にすぎなかった事実はこれを裏書きしている。つぎに総司令部が問題視した点は、教員・組合の政治活動であった。すでに文部省は学校での一般的な党派活動を禁じていたが(発学一六、一八七号)、共産党が大躍進をとげた四九年一月の第二回総選挙において、各地で組合が組織的な選挙支援運動を展開した。その直後の日教組大会で運動方針が左傾化するにおよんで、総司令部は組合活動への積極的介入を進めていった。福井県でも四九年九月に東海北陸民事部が教員の政治活動規制の通牒を発し、県教委も民事部の指示で服務規程を発表した(『福井県教育百年史』4、『福井新聞』49・10・4)。さらに一〇月には「政治教育等に関する準則」を公布し、ただちに各校に通告した(資12下 一三二)。
 この当時、教育現場にかかわるもう一つの問題に教員定数削減があった。四八年一二月の経済安定九原則にもとづき、翌年六月に「行政機関職員法」が公布され教職員の定数削減も必至とされた。日教組は教育防衛闘争として闘いを挑んだが、総司令部と文部省は共産主義者およびその同調者をして削減対象者とする措置を進めていた。福井県でも四九年一〇月に教員整理が発令された。
 このころ、県教組は組織問題で大きく動揺していた。すなわち、義務制と高校との学校経営の相違やイデオロギーの違いがしだいに単一体組合としての機能に支障を来たし、県教組内で高校側に独立論が高まっていた(『福井新聞』48・11・20)。とくに高校組合員にとって自分達の意志が県教組内では反映されにくいとの不満が生じていた。そこで、県教組大会での決定で四九年六月に高校支部が設置され分裂を回避する方向へ進んだが、以後も各高校の県教組脱退が続いた。五一年には自主研究の推進・交流を目的に第一回福井県教育研究大会が開催された。この間、幼稚園・事務職員・養護教諭・養護学校も組織化され組合に加入した。五二年六月の大会で県教組を小・中学校教組と高教組の連合体とすることが決定した。これをうけ、同年七月に高教組大会が結成大会を兼ね開催された。また、地教委の設置にともない、小・中学校が市町村ごとの単位組合を組織し、県教組はこれら単位組合と大学・高校・養護学校の連合体としてあらたに出発した(『県教組二十年史』)。



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