教育委員会法にもとづいて、一九四八年(昭和二三)一〇月に都道府県・五大市・その他任意設置の市町村で初の教育委員会委員選挙が実施されたが、都道府県当局や各地方軍政部の広報活動にもかかわらず都市部を中心に低調をきわめ、投票率は全国で約五六%にすぎなかった。福井県でも住民の関心は低く投票率はさきに実施された知事選や市町村長選に比べてはるかに低く、約六一%の投票率にとどまった。この時、県および今立郡上池田村・粟田部町に教育委員会が誕生し、四八年一一月の「福井県教育委員会規則」をもって七課(総務・管理・教職員・指導・調査統計・社会教育・体育)八支局(県の地方事務所ごとに設置)の事務局機構を組織した(教育委員会告示第二号)。職員は従来の教育部職員があてられ、四九年三月までの暫定の初代県教育長として教育部長が任用された。しかし、当時は新学制間もないころで震災等の復旧など業務が多岐にわたり、軍政部の指導もあって四九年二月に三部(総務・指導・社会教育)に改編したが、専任の部長もおかれず形式に流れた(『福井県教育委員会十年史』)。このころ、教育行政をめぐる対立が軍政部と教育長の間で顕在化していた。教育長の行政能力については軍政部も高い評価をあたえていたが、一般行政との融和をはかりつつ教育行政の漸進的な独立をめざす教育長の姿勢は、教育行政の速やかな完全独立を求める軍政部の忌避するところとなり、三月に更迭され四月からは新任の教育長が迎えられた(『福井県教育委員会報』一周年記念号、「月例報告書」)。こうした軍政部の指示による人事の交代は第八軍施行命令「好ましからざる日本人係官の更迭に関する件」によるもので、各県において日本側担当者の辞職要求が出されていた(阿部彰「対日占領における地方軍政」『教育学研究』49―2)。同年一一月、委員会規則を改め事務局を四課(庶務・学校教育・指導・社会教育)に縮小し、五〇年八月には新制中学校や県立高校の建築、震災・風水害の復旧による学校施設関係事業が繁忙となったため、施設課を独立させ五課八支局とした。この構成は県の抜本的大改革である五六年二月の行政機構大改革まで継続した(『福井県教育委員会十年史』)。 |