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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    一 六・三・三・四制教育の実施
      教職員適格審査
 つぎに問題となったのが軍国主義的教員の除去等の教職員適格審査であった。総司令部はこれを教育民主化の重要な柱として意義づけ、文部省・軍政部を通じてその実施につとめた。一九四六年(昭和二一)五月「教職員の除去就職禁止及復職の件等の施行に関する件」の「別表第一」「別表第二」で不適格者の基準が明示され、「教職員の適格審査をする委員会に関する規程」で都道府県教職員適格審査委員会の設置・構成などを定めた。とりわけ、西日本を管轄とする第一軍団軍政部は管下各府県の審査委員会の構成に関し強力な指導を実施した(阿部彰『戦後地方教育制度成立過程の研究』)。福井県でも同年五月の「学校教職員不適格者氏名の調査に関する件」で審査委員会にかけないで追放されるべき教職員の調査が開始され、同年六月に適格審査委員会が設置された(資12下 一一三)。しかし委員構成のかたよりが一般教職員等から指摘されたため軍政部の指示で委員の交替が行われ、別表の基準にしたがって一〇月末より審査が開始された(『県教組二十年史』)。
 別表第二の該当者は明白な事実関係にもとづき自動的に行われたのに対し、別表第一については戦時体制下における言動から判断することになっていたため、武生町立高等女学校では教職員の戦時中の言動を調査するための父母会を開催していた(資12下 一一四)。委員会としても該当者を特定しがたく心情的にも指定しがたい状況であった。当初、審査完了期限は四六年一一月とされていたが、各府県でも追放該当者指定は進まず保留者も数多かった。そこで総司令部は期限を延期するとともに一般からの投書などを根拠に審査を促進するよう求めた(『福井新聞』47・1・15)。文部省も当初の消極的態度を転換し、全国の各委員会に督促を行ったため、保留のかたちで追放指定を引き延ばすことも困難となり四七年四月にかけ集中的に追放指定が行われた(表88)(『県教組二十年史』)。こうして四月末日をもって審査はほぼ終了し、委員会の以後の任務は新採用教職員と保留者の審査にむけられた(表89)。

表88 福井県の教職員適格審査状況

表88 福井県の教職員適格審査状況


表89 北陸三県の教職員適格審査状況

表89 北陸三県の教職員適格審査状況
 五一年六月、公職追放令取扱の権限が大幅に日本政府に委譲されると、これにともない追放基準の削除・解釈の変更が行われた。いままで不適格とされていたほとんどの者が追放を解除され、福井県の不適格者も五二年度までには全員解除された。五二年六月、県教職員適格審査委員会に関する規程は廃止され、名実ともにその役目は終了した(県訓令第二一号)。



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