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 第三章 占領と戦後改革
   第四節 戦後教育改革
    一 六・三・三・四制教育の実施
      戦時教育体制の解除
 敗戦によって日本は戦時教育からの転換を余儀なくされた。一九四五年(昭和二〇)八月、文部省は「終戦ニ関スル件」を全国に通達し、以後矢継ぎばやに戦時教育下の諸法令を廃止、同年九月には「新日本建設ノ教育方針」を発表し、さらに省内機構・人事の刷新による自主的な教育改革に着手した。しかし、ここでの教育理念には「国体の護持」が掲げられ、改革の主眼は軍国主義の払拭にむけられていた。地方も戦時中を通じ中央集権的教育行政下におかれていたため、「個性・自由の尊重」「自治的活動の重視」等を掲げて新教育を模索しつつも「国体の護持」は不変のものとしてとらえていた(資12下 一〇二)。
 しかし、民間情報教育局(Civil Information and Education Section:CIE)の指令は日本側の予想を上回る内容であった。まず、一〇月「日本教育制度ニ対スル管理政策」で軍国主義的・超国家主義的思想を禁止し、具体的には「教員及教育関係官ノ調査、除外、認可ニ関スル件」で軍国主義的教員の除去・追放を、「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ビニ弘布ノ廃止ニ関スル件」で学校教育からの神道教育の排除を、「修身、日本歴史及ビ地理科授業中止ニ関スル件」で三教科の停止・教科書の回収を指令し、日本側の文部省・地方教育関係者に大きな混乱をあたえていった(文部省『終戦教育事務処理提要』1、2)。
 福井県では四五年末にアメリカ軍が進駐を開始し武装解除を任務とする一方、その当初から第四四一対敵諜報支隊(いわゆるCIC)の分隊が県内各校の視察を実施したが、県内の教育関係者からは好意的には受け取られていなかった(『福井市小学校百年史』、『三国南小学校百年史』、『敦賀北小学校百年史』)。占領軍は四六年のはじめころから、しだいに県行政の監視を行う地方軍政部としての形態を整えていった。学校視察の形式・方法が確立・実施されたのは、四六年二月の第八軍司令部施行命令「日本の教育施設に対する視察の件」が発せられて以後のことであり、勝山市の村岡小学校には四七年九月の軍政部による視察状況の報告が残されている(阿部彰「対日占領における地方軍政」『教育学研究』49―2、『勝山市立村岡小学校百二十年史』)。軍政部側は、各種指令に対する県側の対応の緩慢さと不徹底さに苛立ちを示し、四六年一二月の「日本教育施設検察について」で指令文書に対する周知徹底を指導するなど、両者の間には新教育をめぐる根本的な見解の相違がみられた(武生東小学校文書)。
写真62 勝山市村岡小学校の旧奉安殿 

写真62 勝山市村岡小学校の旧奉安殿 
 その一例に御真影・奉安殿の問題がある。総司令部の神道教育排除の指令にもとづき、福井県でも四五年一二月に御真影・奉安殿など神道的象徴とされるものの撤去を指示した。しかし、「国体の護持」とからみ各校での撤去は容易には進まず、軍政部の指導のもと、四六年に入ると徹底を求める通達が、一月「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証支援保全監督並ビニ弘布ノ廃止ニ関スル件」、同月「奉安殿等ノ神道的象徴除去ニ関スル件」、七月「御真影奉安殿の撤去について」、九月「御真影奉安殿の完全撤去方について」のようにくり返し発せられた。さらには、四六年九月の「学校奉安殿の完全撤去について」では、台石・玉垣等をはじめ植込みにいたるまでの完全な除去が求められ、違反の場合の処罰を付記しており軍政部がいかにこの点に注意を払ったかが汲み取れるが、完全撤去にいたらなかった学校が存在したのも事実である。また、学校での宮城遥拝・天皇陛下万歳の行為廃止も求められている(武生東小学校文書)。



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