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 第三章 占領と戦後改革
   第三節 経済の民主化と産業の再建
    二 農林水産諸団体の民主化
      農業協同組合と農業委員会
 一九五一年(昭和二六)には、農業委員会が発足し、市町村農業委員会―都道府県農業委員会―全国農業委員協議会という組織ができあがった。この農業委員会は、戦後つくられていた農地改革を担当した農地委員会、おもに供出と配給を担当した農業調整委員会、農業改良普及員の選考や農業普及活動を担当した農業改良委員会の三つの行政委員会を統合したものであった。この統合の背景には、農地改革の完了と食糧不足の緩和にともなう、これらの委員会の個別的な存在意義の喪失があった(『福井県農業会議三十年史』)。
 市町村農業委員会は農民の選挙によって選ばれた委員を中心に構成された。市町村農業委員の選挙は五一年七月二〇日に、都道府県農業委員の選挙は翌月二一日にそれぞれ実施され、福井県でも二五三六名の市町村農業委員(一七〇委員会)と、一五名の県農業委員が選ばれた(『福井県農業会議三十年史』)。
 戦前の農業団体には産業組合と農会という二大組織系統があり、前者は主として経済活動や組織指導、後者は主として農政活動や農業生産指導を担当していたことはよく知られているが、戦後もこの農業委員会制度の発足によって、民間の農協系統と、行政の一部を担う農業委員会系統という二つの農業団体組織が併存することとなったのである。ただし、発足当時の農業委員会はその業務内容がかならずしも明確でなく、農地改革の後始末のほかはこれといった具体的な仕事もなかった。 
 こうしたなか、五二年になっていわゆる「第一次農業団体再編成問題」がもちあがることになる。これは農村更生協会が「農事会法案要綱」なるものを発表し、「農事会」という戦前の農会にきわめて類似した団体の設立を提唱したことからおこったものであった(『農業委員会等制度三十年史』)。農協側は農政活動や技術指導を自分たちの手から奪いとるものだとしてこれに激しく反発した。これに対して、進むべき道を模索していた農業委員会側は「農業団体再編成に関する決議」を行い、これを契機に、指導連が行っている農政活動や技術指導を農業委員会の掌中に入れようとした。福井県でも四月に、農業技術陣一本化問題をめぐって、農協と県が激しく対立している。この対立は、県が農業改良普及員(一六四名)を中心に各市町村に農業改良相談所を設け、そのなかに農協に属する農業技術員(一五二名)や農業委員会の書記などを吸収しようとしたことからおこったものである。これに対して指導連は逆に農業技術員の組織に農業改良普及員を吸収しようとして、両者は激しく対立した(『福井新聞』52・4・16)。
 この農協と農業委員会との間の、農業に関する主導権をめぐる対立は、その後約二年間にわたって国政の場を激しく揺がしたが、ようやく五四年六月に、農業委員会法の改正と農業協同組合法の改正が国会を通過したことでいちおうの政治決着をみることになった。これによって、農業委員会には都道府県レベルの都道府県農業会議、全国レベルの全国農業会議所がそれぞれ新設されることになり、農協に関しては、指導連が都道府県レベルにおいて都道府県農業協同組合中央会に、全国レベルにおいて全国農業協同組合中央会にそれぞれ改組された。その結果、農業委員会側は組織としての系統性がより保証されることになり、農協中央会には、関係者の間で、戦前の産業組合中央会がもっていた強力な総合的指導機関としての役割が期待されることになった。福井県でも五四年八月三〇日に福井県農業会議、一〇月五日に福井県農業協同組合中央会がそれぞれ発足している。
 しかし、このような農協と農業委員会の争いにおけるいわば「玉虫色」的な政治決着は、前述の農業技術陣一本化問題や農政活動をどちらが担当するかという問題などをめぐって、両者の紛争の火種をその後も残すことになった。



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