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 第三章 占領と戦後改革
   第二節 政治・行政の民主化
    三 自治体警察の設置と廃止
      自治体警察の困難
 こうして発足した二本立ての警察制度であったが、発足当初からの懸念が一年を経ずして現実のものとなってきた。人口五〇〇〇人の自治体が自前の警察を保有するというのは、十分な財政的保障のないなかではかなりの困難をともなうものであった。たとえば、西藤島村では一〇名の警察定員を維持することとなったが、旧来の西藤島巡査駐在所からいっきょに警察署になったわけで、一〇名の人件費のみならず、備品、消耗品など、なにからなにまで不十分ななか、およそ五〇万円という経費をどのようにしてまかなうかに苦慮していた。警察庁舎も発足当初は村の公民館に借家しているありさまで、あらたに建設するとなると少なく見積もっても一〇〇万円を要するといわれており、警察後援会を作ってこれにより打開するしかないと考えられていた(『福井新聞』48・2・17)。
 西藤島村警察署は、発足の四か月後の一九四八年(昭和二三)六月一日、同村田原下、牧ノ島の両区が福井市に編入したため、自治体警察保有の要件(人口五〇〇〇人以上の都市的町村)を満たさなくなり、七月一日に廃止となった。福井市編入の両区は福井市警察署の管轄に、残りの地区は国家地方警察足羽地区署の管轄となった。西藤島村には再び巡査駐在所がおかれることになったのである。
 自治体警察の困難はひとり財政的側面のみではない。分権化された小規模の自治体警察においては、財政難のみならず人事交流にも行詰りを生じた。さらに重大なことには警察力そのものの弱体化も深刻な問題であった。また、分権化され地元に近いところにおかれた警察というのはそれ自体よい点も多かったわけだが、その反面として、地元の諸勢力と接近しすぎるきらいがないわけではなかった。
 たとえば、県下随一の温泉街芦原を管轄する芦原署における料理店飲食店等に関する規制違反の摘発は一年でわずか二件、生鮮食料品取締りについては一件もないというありさまであった。町の予算で運営される自治体署にとって、当時の署長の「この種違反の摘発が一番にが手で悩みのタネである」という述懐が示すように、町の税収を支えている業界に対する対応が甘くならざるをえないという側面は否定しがたい(『福井新聞』49・2・7)。中央の集権的な支配から地方の自主的な運営にまかせる分権化は地方団体の中央からの独立、団体自治をもたらしはするが、その団体のなかでは住民が一部の勢力に抑圧され住民自治どころではなくなる、という分権のパラドックスがみられることになるのである。
 当時多くの観客を集めた映画に擬して「暴力の街」とよばれた武生の事例が、こういう側面での自治体警察の困難をよく表わしている。四九年九月におこった福井地方裁判所武生支部放火事件に端を発し、暴力分子の専横を許している警察力の弱体化が問題視された。この事件の取調べの過程で暴力分子の専横ぶりが全国に明らかになり、国会から調査団が派遣されるなどの広がりをみせたこともあって、青年団などが立ち上がり市長や一部議員に対するリコール運動を展開した。結局は市長の死と新市長の選出、その新市長と市議会の対立から市議会が解散されるという一連の混乱をもたらして一段落ついた(『武生市史』概説篇、『福井県警察史』2)。
写真55 焼失前の福井地裁武生支部
写真55 焼失前の福井地裁武生支部

 こうした事態に備えての独立行政委員会としての公安委員会であったが、その多くは毅然としたリーダーシップをふるうことができず、名誉職然としており、町の理事者と警察の近すぎる関係を絶つことができず、それどころか、自身、町の有力者として警察を私物化するという批判をうける者まであった。



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