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 第三章 占領と戦後改革
   第二節 政治・行政の民主化
    二 地方行財政機構の改編
      方面委員から民生委員へ
 福祉政策の領域においても、その制度は戦後大きく変わった。総司令部は近代的福祉政策を確立するため、一九四六年(昭和二一)二月に最高司令官指令第七七五号(SCAPIN775)を出し、国家責任、無差別平等、公私分離、救済経費無制限の四つの原則を明らかにした。権利としての社会福祉の理念を徹底するためにこの事業が国家の責任であることを宣言し、軍関係にとくに手厚かった諸救済措置を撤廃することで無差別平等を確認し、公的救済と私的慈善を区別し、財政上の理由からの救済の制限を許さない、とするものであった。実施においても、地方の名望家や篤志家よりなる方面委員におおいに依拠する体制を改め、公務員の専門家による福祉サービスを希求するものであった。これに対応して、四六年九月には「生活保護法」(五〇年五月全面改正)、翌四七年一二月には「児童福祉法」、さらに四九年一二月には「身体障害者福祉法」が成立し、次々と法制度が整えられていった。
 しかし実際には、福祉政策の実施を完全に専門の公務員が担うシステムへの移行は一朝一夕には進まない。結局は、戦前の救護法体制下の方面委員の制度を手直しし、無給の篤志奉仕者である民生委員が設置されることとなったのである。民生委員は市町村の補助機関とされたが、実際の保護費の決定にかかわり、実質的な実施機関となっていた。
 四六年一〇月に、従来の方面委員が民生委員と改称され(民生委員令付則による移行措置)、二か月後の一一月二〇日までにあらたに民生委員を選ぶこととなった。福井県でも内務部長名で市町村に対して、「従来の如き社会的地位、閲歴、財力等に拘泥せず、斯業特に生活困難者等に対する保護について深い理解と熱意をもつた者であり、且つ充分な実践力を有する適格者」を民生委員推せん委員会を設置して、推せんするよう求めた(資12下 五五)。さらに四七年一二月の児童福祉法の制定にともなって、民生委員は児童委員も兼ねることになり、四八年四月の民生委員の改選では、一五四四名のうち旧委員の再選は三分の一にとどまり、新委員のほぼ四分の一は女性であった(「月例報告書」)。さらに同年七月の「民生委員法」によって法制化された。
 こうした戦前との連続性をもった機関に新しい理念にたった福祉政策の実施をゆだねた占領軍は、民生委員や市町村の福祉担当職員の監視・指導にかなり意を払っていたといえよう。福井軍政部の「月例報告書」でも、四七年二月から四九年八月まで残存する福祉課による報告は、時代を下ると簡略化する衛生課のものに対して、一貫して長文のものになっていた。ここでは民生委員や市町村の福祉担当職員に対してきびしい報告がなされていた。生活保護世帯や民生委員の活動に対して「抜打ち検査」と講習会がくり返され、四八年からは軍政部が視察を行った市町村についての「行政監査チェックリスト」が付され、県内の民生委員の保護額決定方法への疑義や、市町村職員が民生委員の活動に対して適切な監督を怠っていることなどが報告されていた(佐藤満「報告書本文と公衆衛生・福祉関係の付録について」『福井県史研究』8)。
 ただ、最高司令官指令第七七五号のいう公私分離の原則が徹底されるためには、生活保護法の全面改正を待たなければならなかった。四九年に入ると、生活保護法の実施にあたって当初、民生委員を補助機関として用いることに対して反対しなかった総司令部も、その運用の過程で、町内会・部落会の実質的な復活への危惧、一部の民生委員が圧制的であることなどから、批判的な見解を示すようになっていた(村上貴美子『占領期の福祉政策』)。くわえてドッジ・ラインの実施による失業者の急増を背景に、社会保障制度審議会で生活保護制度の改善強化が勧告され、五〇年五月、生活保護法が全面改正された。
 これによって、生活困窮者は権利として保護をうけうるものであり、ここで保障される生活とは、憲法第二五条による「健康で文化的な最低限度の生活」であることが明らかにされた。知事や市町村長の行う公的保護事務には専門吏員である社会福祉主事がこれにあたることとなり、民生委員はその協力機関として位置づけられることになった。
 さらに五一年三月に、社会福祉の諸分野にわたる基本法である「社会福祉事業法」が制定され、公的社会福祉の実施の権限は福祉事務所長に委任することとされた。各市に福祉事務所が設けられ、郡部では地方事務所の民生課(のちに福祉課)が当面この業務を代行した(『福井県社会福祉事業発展史』)。



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