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 第三章 占領と戦後改革
   第一節 占領と県民生活
    三 福井震災
      復興と都市計画
 二度にわたる災害をうけ財政事情は逼迫した。県議会は予算のたびかさなる追加補正を行い、年度末にはじつに当初の約九・四倍にもあたる四二億三〇〇〇万円あまりにふくれあがった。一九四八年度(昭和二三)の歳入歳出決算をみると、歳出の六三%あまりが土木復旧、農耕地復旧などの震水災対策費にあてられ、その多くを国庫支出金や起債などに依存せねばならなかった。また住宅復旧、農業施設や産業の復旧については、農林中央金庫や復興金融金庫からの融資によってまかなったが、同年一二月の「経済安定九原則」の指令により第4・四半期分国庫補助は打切り、起債や復金からの融資も抑制をうけるなど財政の運営上困難に直面した。これについては、大蔵省預金部資金の短期融通などによって切り抜けるとともに、四八、四九年度には「福井県復興宝くじ」を発行し、その収益を震水災復旧事業の一部にあてた(「福井県財政事情」)。
 たびかさなる災害は、一方では、それまで実現がとどこおっていた都市計画をいっきに進める好機ともなった。小幡知事は一一月の定例県議会において「この大不幸を一転機」として復旧から復興への強い意欲を表明、年度当初に掲げた六大振興対策および六重点主義とあわせ、都市計画事業を推進した(「第十五回定例福井県議会会議録」)。
 すでに四六年一〇月に戦災復興のための「特別都市計画法」の適用をうけていた福井市は、福井震災を機にきわめて迅速に復旧体制を整え、戦前の都市計画を基本にしながら、区画整理をはじめ街路の拡張整備・上下水道の改良・公園緑地の拡充などを進めた。四九年六月のドッジ・ラインのもとで発せられた、事業の縮小を内容とする「戦災復興都市計画の再検討に関する基本方針」でも、進捗の早い都市には特別の財源措置がとられたことによって、福井市は財政的に優遇されることになった。急速な都市計画事業の実現は一面で「官側からの政治的強行」という側面をもったが、反面でその後の都市基盤整備の骨格を築くことになった(城谷豊・桜井康宏「戦災復興事業と都市空間」『都市計画』101)。
 五四年の「土地区画整理法」の施行以降も、福井市ではその経験をいかして郊外地区区画整理事業を推進し、五八年に九〇%の進捗をみ、六九年に「戦災復興土地区画整理事業」は完成した。さらに八〇年の福井市の市街化区域内での区画整理済率(都市基盤整備度)は、六三・九%で全国の戦災都市のなかでももっとも高い位置を占めていた(石田頼房『日本近代都市計画史研究』)。五〇年代に整備された西公園庭球場・三秀プールなどのスポーツ施設、駅ビルと駅前広場、足羽川左岸の桜並木をはじめとする街路樹、福井中央公園などは広く利用され親しまれている(『新修福井市史』2)。



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