福井軍政部は図35のような機構をもっていた。これは福井軍政部が敦賀から福井に移ってきたころのものであるが、第八軍が軍政機構の再編整備にあたって出した命令書簡(Headquarters,Eighth
Army,Letter Order 6―44"Reorganization
of Military Government in Japan",August
7,1946)によれば、福井軍政部は将校定員六名の小規模軍政部ということになっている(R.J.D
Braibanti"Administration of Military
Government in Japan at the Prefectural Level",The
American Political Sciences Review,Apr.1946)。六名はそれぞれ、軍政官・副官・調達担当官・経済担当官・民間情報および教育担当官・公衆衛生担当官にあてることとされていた(阿部彰「対日占領における地方軍政」『教育学研究』49―2)。将校の担当官のいない課については他の課の担当官が兼任したり下士官があたったりしている。ただ、実態を詳細に検討すると福井軍政部は他府県の軍政部がなお定員を充足していない当初段階から六名を保有し、いわゆる小規模軍政部にはおかないことになっていた執政官(Executive
Officer)をおいているし、のちにも経済課を中心にかなりの数の将校が活動していたようすがうかがわれる(『日刊福井』77・8・15、木村亮「福井軍政部経済課の活動と情勢認識」『福井県史研究』8)。 |