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 第三章 占領と戦後改革
   第一節 占領と県民生活
    一 米軍進駐と福井軍政部の活動
      福井軍政官
 福井県を直接管轄下におくなんらかのアメリカ軍部隊は、結局一九四五年(昭和二〇)から四九年まで存在した、ということであるが、この間、いわゆる軍政官は五名にのぼる。最初の二名は武装解除、制圧を目的とした実戦部隊の指揮官で、ヘーゲン中佐が約三か月、ラッツ中佐は約一か月在任した。三人目以降が文字どおり軍政部隊の指揮官としての軍政官であるが、その最初は著名なハイランド中佐で四六年一月より四八年九月までその任にあった。そのあと一、一一月の二か月がマグレイン中佐、一二月以降最後までデイヴィス中佐が福井軍政官をつとめた。
写真43 ハイランド中佐

写真43 ハイランド中佐

 ハイランド自身が回顧録で語っているところによれば、震水災(四八年六、七月)のさいの共産党関係者に対する対処が第一軍団に問題視され、これがために更迭されることとなったということだが、後任のマグレインがたった二か月で任を離れ帰米したことを考えれば、理由はともあれ彼の更迭はかなり急がれたもののように思われる(「ハイランド回顧録 ふくいの進駐軍」『日刊福井』77・9・26〜10・2)。本格的な後任を用意する前にとりあえず第八軍の軍政局(Military Government Section:MGS)に問題の人物を引き取り、軍政官ポストについてはその年の年末に帰米する予定の者でつないだという節がうかがわれるからである。第一軍団の幕僚と独断専行ぎみのハイランドの間には確執もあったようなのでこの機会を利用した、ということなのかもしれない。また、ハイランドの更迭と関係しているかどうか定かではないが、福井軍政部が近畿地区から東海北陸地区に移管されるのもこの時期(四八年九月二五日付)である。当時の近畿地区軍政部はまだ京都にあり、第一軍団軍政部と一体のものであったから(四九年二月、地区軍政部は大阪に移り軍団軍政部より独立する)、ハイランド更迭をめぐる軍団司令部と福井軍政部の間のぎくしゃくした関係をこれにより整理したのかもしれない。
 ともあれ、こうした軍政官を戴いてきた軍政部隊の機構およびその仕事ぶりについて略記することにしよう(資12下 付録「解説」、『福井県史研究』8)。



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