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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第二節 産業・経済の戦時統制
    一 農業統制と農業団体
      農業生産資材の流通統制
 戦時期の食糧増産策といわれるものは、その多くが積極的に増産をめざすというより生産条件の悪化にいかに対応するか、というものであった。それらは個別農業経営の発展という視点は弱く、各種統制、つまり、生産資材の流通統制、労働力調整と共同作業、作付制限、地主的土地所有の制限および実行組織としての農業団体の再編に要約することができる。また、食糧増産策そのものではないが、食糧の需給均衡を満たすために米穀など食糧の流通過程の再編も行われた。
 まず、生産資材の流通統制について述べる。政府は一九三六年(昭和一一)、「重要肥料業統制法」により価格抑制を、三七年「臨時配給統制法」により配給制度を開始し、三九年には肥料の配給割当制を実施し、四〇年からは日本肥料株式会社による統一的な統制・配給をはじめた。福井県においては、三九年ころの肥料流通は八割強が県販売購買組合連合会で統制されていたが、現物の不足と価格高騰によって未統制数量のヤミ取引きとその偏在が生じていたようで、「農民ヲシテ安ンジテ生産力拡充ニ邁進」するように、県下にもれなく存在している産業組合を通じて「肥料其他農用資材配給ノ一元的配給」を実施するように求める陳情が、福井県農会と産業組合福井支会などによって行われた(資12上 一六四)。これをうけて、福井県では四〇年に福井県肥料配給統制要綱を定めた。本要綱は、合理的な配給・消費のために市町村別の記名式切符を使用し、県農会の指導のもと、過去の配給実績を基準として、県販売購買組合連合会と県肥料卸売商業組合の二系統による統制を行わせるものであった。
 一方、化学肥料は、硫安の国内生産量が戦前時ピークの四一年一二四万トンから、四三年九七万トン、四五年二四万トンへ、過燐酸石灰の国内生産量が戦前時ピークの四〇年一六四万トン、四三年五六万トン、四五年一万トンへと壊滅的な減少傾向を示した。福井県でも、昭和初期から化学肥料である硫安と過燐酸石灰の消費が増大して、三八年にはそれぞれ一反あたり三、四貫程度が施用されていたが、敗戦時には硫安が一反あたり二貫程度、過燐酸石灰に関しては皆無に近い状況になった(「大正昭和福井県史 草稿」)。このような化学肥料の減少に対して、分肥など施肥方法の改良、石灰や海藻など種々の肥料の開発、および自給肥料の生産強化などがはかられた。れんげを中心とする緑肥は、昭和恐慌期における現金支出削減を目的として作付面積が拡大し、昭和初期に一〇〇〇町歩から二〇〇〇町歩であったものが、四〇年には四〇〇〇町歩台にまで増大していた。四一年以降については、購入しようにも化学肥料がないために緑肥栽培を拡大せざるをえない状況になった。しかし食糧事情の逼迫から裏作に麦類の作付けが増大したことから、統計がないため確認できないものの戦時末期には緑肥の作付面積はさほど増加しなかったと考えられる。また、流通上の統制として価格統制も実施されたが、それは生産資材の偏在をなくすことよりも、事実上生産費を低下させる効果をもち、生産者の保護をめざしたものであった。なお、農機具についても、県販売購買組合連合会による一元的な流通統制が実施された。



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