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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    四 戦時下の学校
      満蒙開拓青少年義勇軍
 満州の開拓と国防強化、さらには国内における社会問題の解決策としても意図された大規模な植民的移民方策としての満蒙開拓青少年義勇軍(満州開拓青年義勇隊)の募集が一九三八年(昭和一三)から行われた。義勇軍への応募資格は、数え年一六歳から一九歳の青少年で尋常小学校の課程を終えた者で、職歴は問わないとされた(桜本富雄『満蒙開拓青少年義勇軍』)。入植者には茨城県東茨城郡の内原青少年移民訓練所で二か月、現地満州で約三か年の訓練が国費をもって行われた。政府は三八年中に五万人の義勇軍を計画し福井県には七〇〇人(のちに五〇〇人)が割り当てられた。二月中旬には北陸四県で先遣隊を派遣するとされ、県ではこれに歩調をあわせて募集に力をいれ、県下四か所で講演会を開催するとのことであった(『福井新聞』38・1・13)。これ以降、『福井新聞』には応募状況の記事がいくつか続く。「移民熱振興に青少年を煽る、県当局力瘤を入れる、満蒙開拓軍へ敦賀の青年志望」「四百名の派遣可能」「申込み殺到し定員を遥に突破、好成績の満蒙開拓先遣隊」「満蒙開拓の戦士、志望者四倍に達す」などで、新聞では三〇名定員の先遣隊に対して志望者が四倍に達したことが強調されていたが、福井県からの三八年の本遣隊の最終的な送出数は三一五名と割当五〇〇名をかなり下回るものであった(『福井新聞』38・1・28、2・8、15、18、桜本富雄『満蒙開拓青少年義勇軍』)。
写真28 満蒙開拓青少年義勇軍の出発(敦賀港)

写真28 満蒙開拓青少年義勇軍の出発(敦賀港)

 義勇軍の要員については毎年政府より各府県に供出割当があり、府県は市町村に割り当て、市町村長は青年学校長・小学校長を通じて児童生徒に応募を勧めたにもかかわらず、たとえば四二年度の割当数と実際の送出数にはかなりの開きがあり、約半数の送出がその実態であった(表51)。一方、県内の各郡市別送出数をみると、坂井・大野・丹生郡の順に多く、人口比でみると丹生・坂井・大野・今立・三方の各郡が多かった。全国の送出数は長野・広島・山形・新潟・石川県の順で多く、福井県は二〇番目であった(桜本富雄『満蒙開拓青少年義勇軍』)。

表51 青少年義勇軍送出数(1938〜43年)

表51 青少年義勇軍送出数(1938〜43年)
 義勇軍の生活実態は非常に困難きわまるものであった。無人広野での開拓と軍事訓練という言語に絶する体験をし、三年間の訓練を終えて一人前の開拓者となった時には戦争も激しさを増しており、ほとんどの隊員が軍隊に召集され、隊は敗戦前にすでに崩壊したのである。四〇年に県単位で最初に送出された宮田中隊(東宮義勇隊、隊員二七六名)は四五年八月のソ連進攻時には隊員七名、指導員一名、指導員の家族九名、新婚の「大陸の花嫁」五名計二二名(男八、女九、子ども五)となっていた(『福井県満洲開拓史』)。



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