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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    二 県行財政の戦時体制化
      県庁機構の戦時体制化
 一九三五年(昭和一〇)一月、恐慌により疲弊した地方経済の建直しを企図して「地方官官制」の改正が行われ、経済部が設置された。福井県においても二七年の改正で知事官房と内務・学務・警察部の三部制(一八課)をとっていたのを、内務部を総務部と経済部に分け四部制とした。独立した経済部には経済更生課のほか農林・商工水産・耕地・土木の五課がおかれ、総務部には新設した人事課と統計課のほかに、庶務・地方・会計の五課が属した。これに従来からの知事官房の秘書・文書の二課、学務部の学務・社寺兵事・社会の三課、警察部の警務・保安・特別高等警察・刑事・衛生・工場・健康保険の七課とあわせて、県庁機構は一官房四部二二課体制となった。
 郡役所廃止以来、県庁から遠隔の地である若狭地方からは連絡機関設置の要望が出されており、また県においても三六年後半から出張所設置が計画され、翌三七年四月一日に若狭出張所が小浜町の元遠敷郡役所を庁舎として開設された。酒井利一所長以下三〇名の職員が若狭三郡を所轄し、おもに町村行政、教育、徴税、農業などの指導・監督にあたった。しかし、所長の代決権がごく限られた同出張所の機能については、町村に対する二重監督の弊害がおもに三方郡から叫ばれ、四〇年一二月一六日、同所は廃止され、規模、権限とも縮小された小浜出張所となった(『大阪朝日新聞』37・4・1、40・12・17)。
 若狭出張所がおかれた三か月後に日中戦争が勃発し、翌三八年四月に「国家総動員法」が公布されると県庁機構も戦時体制化されていく。地方行政の戦時体制化とはなにより国政委任事務の拡大であり、県令などの令達公布数は三四年の五六〇件が三九年には一〇三八件とほぼ倍増し、収受発送文書件数も三九年には六〇余万件とおびただしい数にのぼっていた。また行政の業務拡大は、県職員数にも表われており、三四年の一五四六人が三九年には一九〇四人にまで増加していたが、増加は雇員や嘱託が中心であり、業務の繁劇さに対して、俸給の薄さがつねに問題にされた(『県統計書』、資17 第70表)。
 こうした状況のなか戦時体制強化のため地方官官制はしばしば改正され、部や課の増設や統廃合がくり返されることになる。三九年一月に警防課(警察部)が、三月に職業課(学務部)が、一二月には経済保安課(警察部)が、また同年一一月には全国でもっとも遅く、社会教育に関する課が社寺兵事課の兵事業務とともに兵事社会教育課として新設され、さらに翌四〇年一月、商工水産課が商工課と水産課に分離し、二月には統制課が新設された。この四〇年の時点と三五年を比較すると、経済部が五課から八課に、学務部が三課から五課に、警察部が七課から九課にふえ、一官房四部は二九課にまで肥大化していた。
 太平洋戦争が開始されると、戦時体制のいっそうの強化が叫ばれ、翌四二年七月には地方事務所の設置にともない統計課を調査課に、税務・振興両課を廃して地方課に、学務課を教育課に社寺課を社寺兵事課に、健康保険課を保険課に改称した(『大阪朝日新聞』42・7・1)。さらに同年一一月には県庁機構の大改革がなされた。総務・学務・経済の三部を内政部とし、地方・教学・兵事厚生・経済企画・農産・商工・調整・水産・耕地・林務・土木・衛生課と内政部長書記室の一二課一室を、知事官房は人事・庶務・会計課を吸収し、文書課、知事秘書室とともに四課一室を、警察部は警務・警防・保安・経済保安・特別高等警察・刑事・労政・職業・保険課と警察部長書記室の九課一室を所轄させ、一官房二部二五課三室となった。
 しかし戦局がますます悪化するなか、翌四三年一一月には経済部が再置され、四四年一月と三月には保安課が輸送課に、職業課が国民動員課と改称され名称にも戦時色が色濃くなっていた。さらに翌四五年四月には本土決戦体制が唱えられ国民義勇隊が結成されるなか、内政部の庶務・地方・調査課を総務課に統合し、戦時保護課と戦時行政企画室を内政部に新設し、また経済部の農政課を農務課に、農産課を食糧課に改め、統制・水産課を廃して林務課・食糧増産審議室を新設していたが、必至の敗戦と四五年秋の米大凶作がひかえていた(『大正昭和福井県史』上)。



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