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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    一 翼賛体制の成立
      県会の形骸化
 一九三九年(昭和一四)九月に昭和戦前期最後の県会議員選挙が行われた。立候補者は表35にみるように政友会一七名、民政党一五名、社会大衆党(社大党)三名、立憲養正会一名、中立一九名の五五名にのぼった。『大阪朝日新聞』が「政治を動かす産業、政党を圧する新興勢力」と報じていたように、機業家をはじめとする産業人が中立で多数立候補していたところにこの県議選の特色があった。なお、九月には貴族院多額納税者議員の選挙もあり、市橋保治郎福井銀行頭取と土木請負業の熊谷三太郎との一騎討は、熊谷に軍配があがっていた(『大阪朝日新聞』39・9・16、『福井新聞』39・9・11)。

表35 県会議員選挙(1939年)

表35 県会議員選挙(1939年)
 選挙結果は、棄権率が一六・八%と前回三五年の一四・六%よりやや増加し、また前回までの県議選では政友会と民政党の二大政党で九割前後の得票数を獲得していたのが、今回は七割にまで低下していた。しかし、当選者は無投票の敦賀市と三方郡を含め、政友会一三名、民政党一〇名、社大党一名、中立四名であり、依然として二大政党がその力量を示した(『大阪朝日新聞』39・9・24、27)。
 三九年の県議選はこうした結果ではあったが、臨時県会をひかえ、正副議長や参事会員の役職をめぐって、相変わらず政友民政両派は芦原温泉に自派議員を缶詰にし、激しい多数派工作を行った。そのなかで政友会系議員は「政友会福井県支部ハ、中央ニ於ケル派閥ノ如何ニ拘ハラズ、猪野毛支部長中心ノ下ニ一致結束シテ、県政ニ善処スルコト」を誓約して、池田派、猪野毛派の対立を解消しようとし、また中立議員の抱込みに成功し、県会多数派の県政同志会を結成した。しかし、政友会はひとたび多数派形成に成功すると、正副議長の推せんで紛糾したが、とにかくも臨時県会二日目の深夜に、議長に土木請負業の新人酒井利雄を、副議長に若泉孝治を選出し、自派議員で両ポストを独占し、参事会員も一〇名中六名を占めた(『大阪朝日新聞』39・10・5、『福井評論』39・10)。

表36 当初・追加予算と通常県会日数(1937〜44年度)

表36 当初・追加予算と通常県会日数(1937〜44年度)
 こうした背景には、表36の通常県会の開会日数をみてもわかるように県会の機能は日中戦争以降もますます形骸化しており、一方では追加予算額の比重が大きくなり、議員の多くが追加予算を議決する参事会員になることを望むということがあった。正副議長、参事会員の役職をめぐっての「温泉と缶詰、紛争と乱闘」は、日中戦争下多くの労苦を強いられていた県民には県会頽廃の象徴と映ったのである(『県議会史』3)。



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