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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    一 翼賛体制の成立
      実践網の整備
 初期の精動運動は、市町村の実施機関としては、市町村長が中心となって各種団体を総合的に総動員することとされており、市町村単位の組織を欠いていたことが大きな弱点とされた。福井県は、日中戦争勃発直後の一九三七年(昭和一二)七月一三日に、各種団体の総合的運用により市町村の振興をはかるための「市町村振興委員会設置要綱」を通牒しており、多くの町村においては当初この振興委員会が精動運動の決議や申合せをしていた(資12上 一一二、一一三)。ただ、同委員会はこの時期、県が行っていた市町村行財政の総合的指導の受け皿としての機能が中心であり、どうしても精動運動への取組みは形式的になりがちであった。また、町村役場は日中戦争が開始されると、召集と徴発、軍事扶助の相談と慰問、就職のあっせん、将兵の送迎、町村葬、物資の配給、職業登録と国民徴用、生産拡充、戸籍、統計調査などの事務に忙殺され、「自由裁量的事務、例へば精動事務、援護事務は多く後廻しになる傾きあり」という状況であった(自治省公文書「昭和十四年地方制度資料」)。
 三八年四月「国家総動員法」が公布され、精動運動も精神教化運動から経済国策協力運動に重点が移されると、市町村行政を補完するためにも末端行政区域での実践網の整備が不可欠となった。八月の経済戦強調週間の県通牒において第一の実施事項として「市町村戸主会又ハ部落会」の開催を指示しており、このころから県でも部落常会設置の検討をはじめた(『昭和一四年三月福井県国民精神総動員実施概要』、『福井新聞』38・9・5)。一〇月の県市町村長会議では、県がすでに設置されていた南条郡北杣山村互警組合や吉田郡五領ケ島村五人組制度などを紹介するとともに、部落常会と五人組制度設置を提案し、賛同を得ていた(『福井新聞』38・9・5)。翌一一月には、総務部長と学務部長が国民精神総動員の具体的実効をあげるため、「自治体ノ細胞的組織」の年末までの設置を通牒し、「全国にさきがけて五人組制度を結成する」と意気込みをみせていた(資12上 一一五、『福井新聞』38・11・20)。
 しかし、この通牒が出されると、農会から五人組制度が行政の補助機関機能をこえて生産部門にも進出し農家組合と競合しているという批判が出され、県地方課は実践網組織として農家組合を活用してもかまわないという弁明の談話を発表せざるをえなかった。この農家組合との競合問題は三九年に入っても続き、県の五人組制度の全町村設置という当初の意気込みにもかかわらず、また同年八月から内務省も実践網の設置に積極的に乗りだしたにもかかわらず、三九年末でようやく八〇数か町村の設置にとどまっていた。ただ、こうした背景には、福井県のような農村県においては、明治以降も区(大字)には区長が、また各区を何組かに分けた組には組長(組当番)がいて、各区の公共性をおびた事業や行事を行っており、ことさらに五人組制度というものを書類上作成し、県へ提出する必要性を感じていなかったことがあった。逆にいえば、県だけがこうした組織実態の把握と明文化を欲し、また効率的な上意下達を望んでいたのである(『福井新聞』38・12・5、39・8・16、40・1・5)。
 こうした状況ではあったが、戦争の長期化からくる統制経済の強化や防空訓練などの必要から、また政府の通牒や補助金もあり、県は常会指導者講習会の開催や「常会七則」の制定を行った。さらに四〇年一月九日には「実践網整備要綱」(県訓令第一号)により、五人組制度が実質的に機能するための市町村常会および部落・町内常会の設置とその開催を奨励した。この訓令では、実践網が図解され、常会の組織、運営、常会の会議次第、記録の保存など細部にわたる指示がなされ、一六条におよぶ部落常会規程例もあげられていた(資12上 一二二)。ただ、こうした県の意向をうけて、福井市でも同年一月に「常会設置要綱」を決めてその奨励に乗りだしていたが、四月になっても常会開催は区常会で一割五分、町内常会においてはわずか五分であった。新聞も「常会設置遅々」と報じていたように、県民は国民精神総動員という有無をいわさない美辞麗句による上意下達の受け皿をつくることには決して積極的ではなかった(『朝日新聞』40・1・6、『福井新聞』40・4・20)。



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