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 第二章 日中戦争から太平洋戦争へ
   第一節 戦争動員体制の強化
    一 翼賛体制の成立
      日中全面戦争の開始
 一九三六年(昭和一一)の二・二六事件で決起部隊は反乱軍とされたにもかかわらず、この事件を契機に軍部の政治的発言力はかえって強化された。岡田啓介内閣にかわって登場した広田弘毅内閣は軍備拡充政策をとり、国家予算は三六年度の二三億円が、三七年度には三二%もの伸びをみせ三〇億円となった。その結果、軍事費は一四億円と膨張し、歳出総額の過半に近い四六%強を占めるまでになっていた。
 三七年七月七日深夜から翌八日未明にかけて、北京郊外の盧溝橋付近での日中両軍の衝突に対して、近衛文麿内閣は「現地解決」による不拡大声明を発したにもかかわらず、日本軍は華北派兵を行い中国側の抗戦意識を決定的なものにした。翌八月には上海に飛火し、さらに華中へも戦線が拡大することになり、ここに八年間にわたる「宣戦布告」なき日中全面戦争が開始された。
 この日中戦争の開始に対して、国民の多くは「暴戻支那膺懲」の戦争として支持し、県下各地で国威宣揚祭が行われるとともに、緊急県会協議会が全議員出席のもと開催され、政府や現地司令官に戦争支持や激励の電報を打っていた(『大阪朝日新聞』37・7・22)。しかし、日中戦争は、日露戦争型の古典的近代戦争とは異なる、中国軍の持久・ゲリラ戦争のシナリオに沿ったいわばより現代的な民族解放戦争的性格を強く帯びていた。局地的戦争では勝利をおさめても中国側の抗戦意識は衰えず、かえって戦線は拡大を続けた。そのため三七年度から四〇年度までの間に、臨時軍事費だけで、同時期の政府一般会計の一六三億円を一〇億円上回る一七四億円が投入された(『昭和財政史』6)。また、こうした戦争の泥沼化は、戦死者の激増をもたらし、福井県でも三七年七月から一二月までに一四〇〇余名が戦死した(『福井県英勲録』)。



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