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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    六 自動車交通の普及
      戦時体制下の自動車事業
 一九三一年(昭和六)九月の柳条湖事件に端を発する中国大陸への侵出は、三七年に全面戦争へ拡大し、翌年四月には「国家総動員法」が制定された。陸運では、同月の「陸上交通事業調整法」で、国家的・軍事的要請から整理・統合が進められ、四〇年二月の「陸運統制令」によって、陸上輸送は完全な国家管理下におかれた。
 自動車産業も大きな影響をうけた。自動車の国産は、三六年の「自動車製造事業法」の制定と、三八年の外国製乗用車・トラック輸入禁止で一時発展をみせたが、四一年にはバスが、四四年には乗用車が生産を停止し、軍事物資輸送の一翼を担うトラックでも、生産目標の達成率は年々低下し、ガソリン消費の規制強化によって実動率も低下した。逆に、軍事関連の輸送は、増加のうえに緊急を要するようになり、より効率的な活用を企図して、統制や統合が進められた。
 石油の消費規制も三七年にはじまり、翌年には「揮発油及重油販売取締令」が制定され、三九年には、代燃車使用の推進を指示している。福井県でも、「揮発油及重油販売取締規則施行細則」(県令第一五号)が公布され、所轄警察署に一か月ごとに申請し購買券の交付をうけることになり、消費の統制機関として福井県石油消費規制委員会が設置された(翌年には配給面の統制も加わり福井県石油委員会に改称)(県告示第一六六号)。さらに、四一年一〇月には乗用自動車のガソリン使用が全面禁止となり、乗用自動車の運行は代燃車に限定された。また、三九年四月には、「自動車用タイヤ、チューブ配給統制規則施行細則」(県令第一九号)も公布されている。三八年三月一八日に福井県自動車検査場で、代燃車の一つである木炭自動車の試運転が行われ、スピードは時速五〇キロメートル、燃料はガソリンの半分、として経済性が推奨されている(『福井新聞』38・3・19)。しかし、福井県内の木炭自動車数は、三九年二月現在で一九台(乗合自動車一六台・トラック三台)で、県では三か月間で全県下車輌数の二割にあたる三五台を強制的に木炭(二八台)・薪木(七台)自動車へ転換することを奨励したが、五月中旬現在ではあらたに三台が転換されただけであった(『福井新聞』39・2・28、5・11)。
 四一年一二月、対米英開戦で、陸運業への統制はいっそう強化された。四二年八月には、公共団体や地方鉄道が主体となり、乗合自動車事業を、一路線一営業から一交通圏一業者へ整理統合させる指示が出され、四二年現在、全国で一一四五あった業者は、翌年にはいっきょに四一四業者に整理された。福井県でも、四三年七月に福井市周辺の一〇業者が福井県乗合自動車株式会社に、九月に敦賀・若狭地方の六業者が敦賀乗合自動車株式会社に、武生・鯖江両町周辺の九業者が福井県中部乗合自動車株式会社に統合された。また、五一事業所(主)あった貨物自動車事業でも統合が進められ、三七年に半官半民の国策会社として設立された日本通運の福井・鯖江・武生・大野・勝山・小浜の各支店と、福井貨物自動車・大野貨物・越前貨物・敦賀貨物・敦賀港海陸運輸・小浜貨物の各株式会社となった。タクシー事業は、七九社から一三社に整理されている(「大正昭和福井県史 草稿」)。

表34 敗戦時の県内自動車数 

表34 敗戦時の県内自動車数 
 福井県では、四五年七月に、敦賀と福井の両市があいついで空襲をうけ、県内自動車総数の約四割の三一九台(乗合自動車一八台・貨物自動車一一九台・乗用車八二台)が焼失・大破するなど、大きな被害をうけた。戦争が終わった直後の自動車の内訳は表34のようである。



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