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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    二 原糸流通組織の構造と人絹取引所の成立
      オッパ取引の性格
 福井産地は羽二重全盛期から福井市が原糸の一大消費地として原糸商(問屋、仲買)が多数存立し、活発な原糸取引が行われていた。人絹織物の時代になると、一九三一年(昭和六)、三二年では福井に入荷する人絹糸は全国の生産高の五割強に達し、福井市場が人絹糸相場の標準とされるようになった(福井県織物同業組合『五十年史』)。
 人絹糸取引の特殊な形態として「オッパ取引」がある。オッパ取引とは本来、帝人岩国工場品一二〇デニール糸を対象として、約定限月中売手勝手渡として行われた先物取引を意味した。「オッパ」の語源は、約定限月中いついかなるときに受け渡してもよい、すなわち売手側の「オツ放し」であることからきているという(福井県織物同業組合『五十年史』)。また相場用語で「オッパル」すなわち「賭け事で、何両オツパツタとか何円オツパツタとか云ふ様に通俗語を相場用語にした」(日本人絹連合通信社『日本人絹発達史』上)、あるいは、福井方言に「やり放し」という意味で「オッパッパ」という語があり、これを語源とする説もある(横浜正金銀行頭取席調査課『輸出貿易を中心として見たるレーヨン問題概観』)。オッパ取引という語は、三〇年四月、大阪で行われた全国人絹糸特約店研究会の席上で話題になったことから全国に知られたといわれる(山崎広明『日本化繊産業発達史論』)。
 そもそも福井産地においては大正期に絹紬を対象として「市中の思惑師」が空取引を行ったのが起源であり、この取引方法は当時から「盥廻し」と呼ばれた。これは、売手が催告状とともに少数の現品を店舗に運搬し、現物提供の形式をとり履行の催告を行うものである。かくして同一の現物が各買い主の間をたらいまわしされるので、この名がついたといわれる(名古屋控訴院『福井管内織物業の変遷と其法律的考察』)。
 オッパ取引を行うことができるのは福井レーヨン商組合の組合員に限られていた。同組合は、二八年三月にそれまでの北陸レーヨン商組合から石川県業者が脱退したことから設立された。設立時の組合員は、福井市内に本店もしくは支店、出張所をもつ人絹糸商人三六名であった(福井県織物同業組合『五十年史』)。オッパ取引の隆盛にともない大阪、京都方面の原糸商が続々と福井に進出した。三一年上半期にはすでに店舗を有していた田中商店、中辻商店、塚島合名会社のほかに大阪から日商、岩田商事、八木商店、田附商店、京都から広島撚糸商会、大橋理一郎(蝶理商店)、川村佐兵衛、成田商店、山脇商店、川徳糸店、東華織物、丸紅商店京都支店などが進出し、彼らの多くは福井レーヨン商組合に加入した(『福井新聞』31・7・16、福井レーヨン特報社『福井人絹会館新築落成記念』)。
 しかし、実際の取引は、組合員の間に介在したブローカーの手により行われたようである。オッパ取引全盛の三一年はじめ、ある組合の調査によると人絹ブローカーの収入は一人一か月二〇〇円から一〇〇〇円ときわめて高かった。ブローカーの手数料は、オッパ取引の隆盛にともない漸次低減したが、三一年四月から一梱(一〇〇ポンド)あたり五銭であった。一か月二〇〇円の場合取扱数量は四〇〇〇梱、一〇〇〇円の場合二万梱となる。彼らは自転車のみを資本に「オッパ街」(福井市佐佳枝中町)の商店間を走り回りオッパ取引の仲介に従事し、同業者団体であるレーヨン同和会の会員が三一年には四五名であったという(『輸出貿易を中心として見たるレーヨン問題概観』)。
 彼らの系譜の一つは絹紬ブローカーであったが、いま一つの給源は問屋の丁稚で、「近頃丁稚から漸く一人前になつた子飼の連中がドシドシ暇を貰つてブローカーの群へ走るので問屋筋では忽ち店員が払底し大恐慌を来してゐる」という(『福井新聞』31・2・20)。
 オッパ取引の効用として、一般の清算取引同様掛繋ぎ機能(売繋ぎ、買繋ぎ)があったことがあげられる。また、以下の事例にみるように原糸商、機業家が証拠金を払わずに事実上自由に参加し、随時大量の売買を行えたことが他の清算取引と異なる特徴であろう。しかしその裏返しの特徴として空売買が行われやすく、証拠金を要しないため薄資の者が参加し破産する者を生じること、また「有力老狡なる商人」が買占売崩の方法により人為的に相場をつくるため異常な相場の変動を来たしたことが弊害であった(『福井管内織物業の変遷と其法律的考察』)。
 人絹糸の取引形態には、オッパ取引のほか順次取引(順次渡し)と現物取引がある。順次取引はそもそも人絹会社からの入荷を待ち、約定限月中に荷渡しする先約取引であるが、人絹糸の入荷が順調になるにつれて一か月を三旬に分けて荷渡しが行われるようになった。オッパ取引と異なり機業家の実需を背景に行われ、東洋レーヨン、昭和レーヨン、旭絹織の三銘柄が中心であった(日本銀行調査局『福井県ニ於ケル人絹機業ニ就テ』、『輸出貿易を中心として見たるレーヨン問題概観』)。
 三一年上半期の福井市場の人絹取引数量は約一二一万梱、そのうちオッパ取引によるものは約八六万梱で七一・一%を占めている。また福井市場に入荷した帝人岩国一二〇デニール糸は約一万八〇〇〇梱であったからオッパ取引のうち現物をともなったものは二・一%にすぎない(『福井管内織物業の変遷と其法律的考察』)。オッパ取引が差金授受を目的としていたことがうかがわれる。



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