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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第四節 恐慌下の商工業
    一 「人絹王国」の誕生
      羽二重工業組合の設立
 福井県織物業においては福井県織物同業組合が最大の同業者団体であったが、この時期には、機業家の自主的統制を行う工業組合があらたに設立されていった。工業組合とは一九二五年(大正一四)四月公布の「重要輸出品工業組合法」に法的根拠をおく協同組合組織であり、主として輸出中小工業の生産統制・販売統制・共同事業を行った。
 県下ではまず、羽二重機業家による工業組合の設立機運がおこり、三〇年(昭和五)六月ころ福井羽二重会が中心となって業者間の意見調整がなされた。三一年一月一一日商工省から吉岡技師・今井技手が来福、県織物同業組合、福井羽二重会も設立に同意し、輸出羽二重工業組合設立を決定した。区域は、福井精練加工株式会社の各工場所在地を一地区とし、福井(吉田・足羽・坂井を含む)、鯖江、武生、勝山、大野の五地区とし、五月一八日にこれら五組合は設立認可された。
 一組合の規模(人数)は小さく、とりわけ大野郡は郡内に二つの工業組合を有することになり、商工省は一本化させるべく指導したが、当業者は絶対反対の態度をとったのである(『福井新聞』31・2・20)。
 このころ、全国の羽二重工業組合を結ぶ連合会組織結成の準備も進められ、三一年六月一二日福井県織物同業組合において日本輸出羽二重工業組合連合会(日本羽工連)第一回創立準備会が開催された。参加組合は、加賀、川俣、相馬、福井、武生、鯖江、勝山、大野の各工業組合であった。ところが、福井県織物商協会の羽二重取扱業者が創立準備会に対して販売方法、取引方法などに関する要求書を提出し、機業家内でも共同販売につき意見が対立し、共同販売は三六インチ、三八インチ物のみとしてその他は放任することになった。七月一〇日に創立総会を行い、生産分野の決定、需給の調節、価格協定、格付検査所の設置、格付取締の実行、共同販売を行うこととした(『福井県繊維産業史』)。
 なお、福井県輸出羽二重工業組合連合会は、各組合設立時にその結成が合意されていたが、共同販売を行う品種の範囲をめぐって福井組合と他組合に意見の相違があり、日本羽工連に遅れて三二年一月二四日にようやく創立総会を迎えた(『福井県繊維産業史』)。



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