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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第三節 教育の再編と民衆娯楽
    三 民衆娯楽の普及
      だるま屋少女歌劇
 さらに一九二八年(昭和三)に福井市に開店した県内最初の百貨店・だるま屋は、「劇場や常設館の外に遊び場所を有たなかつた町の人たちは、だるま屋を一つの遊園地のやうな心持ちで訪づれた」と記されたように、それ自体が都市的な娯楽施設としての側面をもっていた(藤田村雨『だるま屋百貨店主坪川信一の偉業』)。
 そもそも三越をはじめとする日本の百貨店は、子ども連れの家族を顧客とし、食堂や屋上庭園、催物や展覧会をあわせた「遊覧場」としての性格を共通にもっていた。これに対してだるま屋は、当初からコドモ百貨部、コドモ相談部などにより子どもに焦点をあてた事業を展開し、三一年一月には別館「コドモの国」がオープンし、その専属として少女歌劇部がおかれた。同年四月には尋常小学校卒以上の少女一二名(第一期生)を採用、一一月にはだるま屋少女歌劇第一回公演が開幕した。この少女歌劇は、第四期生まで約三〇名が在籍し、月ごとにプログラムをかえながら(八月は休演)、三六年七月まで継続して公演を行った。
写真15 だるま屋少女歌劇のプログラム

写真15 だるま屋少女歌劇のプログラム

 百貨店の音楽隊としては、はやくは三越(一九〇九年)や白木屋(一一年)などで試みられており、一四年には宝塚唱歌隊(少女歌劇団)が、さらに二三年には、だるま屋創始者の坪川信一もファンであったとされる松竹劇楽部生徒養成所(松竹少女歌劇団)が第一回公演を催していた。石川県では、金沢市近郊の内灘海岸砂丘地に二五年開園した「粟ケ崎遊園」で、少女歌劇団のレビューが呼び物となっていた(初田亨『百貨店の誕生』、『図説石川県の歴史』)。
 こうしたなかで出発しただるま屋少女歌劇は、舞踏小品を組み合わせた「ヴァライテイ」に加えて、「爆弾勇士江下一等兵」(三二年三月)、「大国主命」(三二年六月)などの「学芸会」的なものから、「国性爺合戦」(三二年一一月)、「忠臣蔵」(三三年一一月)、「安宅」(三五年一〇月)、「椿姫」(三六年二月)などをこなし、しだいに好評を博していった(福井市『わがまち福井』)。月二五日間の公演のほかに、坂井郡や今立郡など近隣郡部の青年団や教育会、工場の慰安会や三五年五月の福井市役所落成祝賀会などの出張公演もこなす多忙ぶりであった(『少女歌劇タイムス』35・7)。
 プログラムを掲載した『少女歌劇タイムス』には、三四年一〇月から批評・感想欄が設けられた。ここには、月々の公演のできばえについて観覧者から自由な講評が寄せられており、それ自体が批評誌としての役割をもっていた(高田富家文書)。さらに少女歌劇が上演されただるま屋のホールは、三五年の福井市役所・公会堂の新築まで市内に公会堂がなかったため、各種団体の総会や展覧会の会場としても利用され、公共的な機能をも果たしており、地方都市の文化的な拠点となっていたといえよう。
 三六年七月、だるま屋少女歌劇は百貨店に興行場を設置することを禁止した内務省の指示によって、公演中止を余儀なくされた。これ以後は歩兵第三六連隊への慰問などの不定期な活動は行われたが、この七月公演が事実上の終焉となった。



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