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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第三節 教育の再編と民衆娯楽
    一 不況下の学校
      不況下の中等学校と進学熱
 一方、昭和初期には福井県でも、尋常小学校卒業者のうち男子で七割強、女子で四割弱が高等小学校へ進学するようになっており、男子では高等小学校までのおよそ八年間の学校教育が一般化しつつあった。
 これに対して中等学校生徒数も、とくに第一次世界大戦以降一九二九年(昭和四)ころまで急速に増加していた。図21にみられるように、第一次世界大戦後にもっとも高まった進学競争は、これ以後の不況の影響と、学校(とくに高等女学校)の増設による定員増によって入学倍率が減少し、三〇年度から三二年度には中学校、高等女学校ともに志願者が一〇〇〇人を割り、倍率も一倍前後まで低下した。
図21 中学校・高等女学校の入学倍率(1918〜42年度)

図21 中学校・高等女学校の入学倍率(1918〜42年度)

 二七年一一月には、文部省は受験教育の弊害を減少させるために、「中学校令施行規則」を改正し、小学校の成績と人物考査、身体検査によって選抜することを準則とした。これをうけて県は二八年二月に「県立中学校学則」「県立高等女学校学則」に加えて県立の各実業学校の学則を改正して、小学校の成績と口頭試問による入学者選抜に変更した(県令第一〇〜一五号)。
 この制度改革について、福井高等女学校長の武政房吉はつぎのように批判していた。すなわち受験生は口頭試問準備のために相当苦しんだが、「準備教育の弊は依然として形を変へて存在している」こと、内申書の重視によって、今度は情実地獄の危険性があることを指摘した。さらに、県下の女学校については現状では定員割れの学校もあることから、無理をしなければ入学難はないこと、志願者が都市部に多いことから福井市に女学校を一校増築してほしいことを述べていた(『福井評論』28・4)。
 このような鎮静化しない受験準備教育の現実と入学者の選考難から、二年後の二九年一一月には、文部省は「教科ノ暗記暗誦ニ流ルルコトナク理解、推理等ノ能力ヲ判定」しうる平易な事項については、必要ある場合において筆記試問の方法を加えることを認めた通牒を発し、ふたたび筆記試験が復活することになった(『明治以降教育制度発達史』7)。県においても一二月に口頭試問のさいに筆記試験を用いてもよいという通牒を発した。
 この後不況のために三〇、三一年度は定員割れを生ずるほどに受験者は減少し、その後、ふたたび受験者が増加し、受験教育が激化してきたので県は三五年二月に暗記中心の出題を控え理解力・推理力をみるような問題を提出するように要望している(『福井新聞』30・3・2、『福井県教育百年史』4)。
 さらに、三九年九月、中等学校の入学者選抜に筆記試験を完全に廃止し、内申書・口頭試問・身体検査によることを文部省が通牒したのをうけて、県でも四〇年度の入試では学科試験を廃止して口頭試問が行われた。その内容は「あなたは家でどんなごはんを食べていますか」「どうして七分搗を食べなければならないのですか」「米が足らねば外国から輸入すればよいのではないですか」などであった(県立藤島高校『百三十年史』)。



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