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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    四 恐慌下の水産業
      沿岸・沖合漁業の低迷とその打開策
 大正期を通じて福井県の沿岸漁業漁獲高は、五〇〇万貫前後で推移していく。大正後期に、発動機船化の進行にもとづく沖合漁業の勃興・展開によって、福井県の沖合漁業漁獲高(資料編17『統計』では「遠洋漁業漁獲高」と表示)は飛躍的に増大する。昭和期に入って沿岸漁業の停滞は続き、沖合漁業漁獲高は、一九二七年(昭和二)を境にして下降線をたどることになる(図18)。沖合漁業の中心となった機船底曳網漁業は、回遊性をもたない底魚を効率的な漁法で根こそぎ漁獲するために、早くも魚類の減少・漁場の荒廃をもたらすことになったからである。
 沿岸漁業が伸び悩み、沖合漁業の低迷を打開するために遠洋漁業への模索がはじまった時期に、昭和恐慌をむかえることになった。昭和恐慌期に入って福井県の漁村は、著しい不漁と魚価の大幅な下落の二重の困難な状況をかかえ、窮乏化していった(図18・19)。極端な不漁に陥った三二年には、丹生郡では漁夫一人あたりの月収はわずかに三円内外であり、米を求めるのに漁具と交換することも行われるほどであった(『福井新聞』32・7・15)。丹生郡の漁村四か村の村長から、政府保有米を漁村に供給してくれることを求める請願書も出された(『福井新聞』32・12・25)。
図18 沿岸漁業と遠洋・沖合漁業の漁獲高(1926〜45年)

図18 沿岸漁業と遠洋・沖合漁業の漁獲高(1926〜45年)


図19 福井県の魚価(1926〜40年)

図19 福井県の魚価(1926〜40年)

 県当局が窮乏にあえぐ漁村を救済するための対策の一つが、時局匡救事業として、長年にわたり県漁業界の懸案事項となっていた漁港・船溜を修築することであった。三二年度から二年間で四〇万円を費やし(うち国庫および県費補助三〇万円)、坂井郡鷹巣村和布・丹生郡越廼村茱崎・城崎村厨・国見村鮎川、南条郡河野村糠、三方郡北西郷村日向、大飯郡高浜町・和田村の八か所に漁港・船溜がつくられた。さらに、沿岸漁業・沖合漁業の行詰りを遠洋漁業でカバーする道が模索されていく。県水産試験場所属の指導船福井丸(六一トン)は、二八年に他府県の指導船に先駆けてソ連領沿海州沖合の漁業調査を行い(『底曳網漁業制度沿革史』)、以後たびたび沿海州沖合での機船底曳網漁業、日本海中央部に位置する大和堆でのサバ延縄漁業、朝鮮半島北部沖合でのサバ・イワシ流網漁業の操業試験を行い、漁場開拓に成果をおさめていった。この成果をふまえた県当局の遠洋漁業奨励には、漁民は気のり薄であった。昭和恐慌期においても福井県の発動機船化は順調に進行したが、新造船の大半は五トン未満のものであり、二〇トンをこえる発動機船はわずか数隻にすぎず(資17 第287表)、遠洋漁業に進出できる漁船はなかなか出現しなかった。
 遠洋漁業にまず取り組んだのは、小浜町西津の漁民たちであった。三五年に西津の第二金比羅丸は、民間船としてはじめて大和堆での操業を行い好成績をあげた。さらに、西津漁民は、若狭湾での機船底曳網漁業の不振を打開すべく西津遠洋漁業実行組合を組織し、日本勧業銀行からの五万円の低利融資・農林省からの漁船奨励金・組合員の出資などで約一一万円を工面し、三六年一月、二二五馬力・一〇一トンの鋼鉄船西津丸を進水させた。西津丸が底曳網漁業権を獲得するために、西津および小浜町小浜の七隻の機船底曳網漁船が廃船となった。西津丸は「無線装置迄ある近代的設備を有し、裏日本における漁船中、大きさにおいて且又新鋭なる点において断然群を抜く」ものであった(『福井新聞』36・1・8)。西津漁民の期待を担った西津丸は、三六年から三七年にかけて富山県伏木港を根拠地として、沿海州沖合での底曳網漁業・大和堆でのサバ延縄漁業に従事したが、採算がとれるほどの水揚高を得られなかった。三七年秋から三八年には、神奈川県三崎港を根拠地として太平洋マグロ漁業に従事し、三八年夏からは北千島方面のサケ・マス漁業に傭船となって従事した。そして翌年には、期待された成果をもたらせぬまま海軍省に売却された。西津漁民の遠洋漁業への夢は頓挫することになる。
写真11 西津丸の出漁準備費等の概算書

写真11 西津丸の出漁準備費等の概算書

 西津丸が操業をはじめた時期に、坂井郡三国町の田井丸と城崎村の第五光陽丸も沿海州沖合で機船底曳網漁業に取り組み、西津の日吉丸は県からの補助金をうけて、朝鮮半島北部沿海でのイワシ漁業に参加した。また三九年には農林省のあっせんで、六隻の中型漁船(一五トン以上)が中国海南島を根拠地にして南シナ海に出漁し、四ケ浦村の米谷栄太郎らは、中国山東省青島を根拠地として東シナ海に進出した。しかし、福井県の遠洋漁業は試行的段階にとどまり、本格的な展開にはいたらなかった。その理由としては、遠洋漁業に耐えうる大型漁船を建造できる漁業資本家がいなかったこと、漁業権を統合して漁業組合自営のかたちで漁船の大型化をはかることができなかったこと、遠洋漁業を展開しようとした時期が、不幸にも満州事変から日中戦争へと戦火が拡大した時期であり、石油・漁具等の漁業用資材不足のために遠洋漁業自体が衰退せざるをえなかったこと、などを指摘することができる。



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