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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    三 農村の副業と機業
      農民の出稼ぎ
 農家の副業の一つのあり方として、出稼ぎをあげることができる。福井県は、かつてこの出稼ぎがさかんな地域であった。恐慌直前の時期、一九二八年(昭和三)における出稼者の数は、県副業組合連合会が把握しただけでも、男子一万・女子六五〇〇名の計一万六五〇〇名あまりに達した。これは、当時の福井県現住人口のほぼ三%弱にあたる数である。これを郡別にみると、南条郡がもっとも多く、現住人口の約八・五%にあたる三七〇〇名あまりを数えた。ついで、坂井・大野・今立郡が多く、人口比でみれば嶺南の三方郡も出稼ぎのさかんな地域であったといえる。
 つぎに出稼ぎ先をみると、全体の六五%強にあたる一万一〇〇〇余名が県外を、残りの五三〇〇余名が県内を就業先にしていた。県外の場合は、図14にみるとおり、京都・大阪・東京・愛知・北海道の順に多かった。職種については、詳細は明らかでないが、男子であれば「日稼」がもっとも多く、ついで「下男」「漁夫」「職工」「酒造」「店員」「会社員」の順に多かった。とくに北海道の場合は、男子の漁夫がその大半を占めていた。一方女子は、製糸・紡織関係が圧倒的に多く、「下女」「日稼」がこれについだ。県内における出稼ぎについても、これと同様な傾向がみられる。また、出稼者の年齢は一六歳から二〇歳と二一歳から三〇歳の層が同じ程度に多く、両者で全体の七割を占めた。彼らが稼いだ金額は、総計四二〇万円あまりに達し、うち一六〇万円ほどが郷里に送金できる額ととらえられていた(『福井県の副業』)。
図14 県外への出稼数(1928年)

図14 県外への出稼数(1928年)

 県社会課による三二年中の調査では、出稼者の数は男子八四〇〇・女子四〇〇〇名の計一万二四〇〇名あまりで、男子の酒造、女子の製糸・紡織、男女ともの「戸内使用人」や種々の商業に携わる者が多いとされた。出稼ぎ先は、やはり京都・大阪・愛知・東京・滋賀・北海道が多いと報告されている(中央職業紹介事務局『昭和七年中に於ける道府県外出稼者に関する調査概要』)。
 出稼ぎのもっともさかんであった南条郡では、毎年一〇月中旬から翌年四月中旬ころまで、男子は酒造「杜氏」、女子は「女中」に出るのが一般的であった。河野村糠では、明治末期に出稼者による酒造杜氏組合がつくられている(『福井県南条郡誌』)。三〇年には、同区を中心に同郡河野・坂口村、丹生郡白山・城崎村の四か村にわたり組合員一〇〇〇名を有しており、一一月の初旬には、そのうちの五六〇名について、京都の伏見や静岡、大阪の醸造業者との就業交渉が成立していた。そして、なかでも「越前杜氏」の名で知られた「酒男」たちは、五、六か月の間に、最高一〇〇〇円、普通でも六〇〇円から七〇〇円を稼ぐといわれた(『大阪朝日新聞』30・11・2)。女子もまた、さきの四か村から一〇〇〇名にのぼる出稼者があったらしく、三一年のシーズン前には臨時職業紹介所の設置が望まれたほどであった(『大阪朝日新聞』31・8・15)。
 また、大野郡でも「冬稼ぎ」と称して、毎年一一月をピークに二〇〇〇名前後の出稼者が郷里をあとにした。かつては四〇〇〇名をこえたといわれるほど、出稼ぎのさかんな地域であった。出稼ぎ先は、京阪神と名古屋、岐阜方面が多く、やはり酒造関係に携わる者が少なくなかったようだ。そして、明春の三月から四月には、総額で一〇万円、一人平均五〇円の土産金をもって帰郷するといわれた(『大阪朝日新聞』31・11・21)。大野郡小山村では、三一年の三月中旬に村民一五七名がおよそ一万円を稼いで帰村した。そこで、既設の出稼人保護組合が中心となって「出稼者愛護デー」を小学校で催すこととなり、出稼者の家族を含めて約三〇〇名が出席し郷土舞踊などで帰郷者の慰安をはかった(『大阪朝日新聞』31・3・26)。三二年一〇月には、大野郡で県内初の郡を単位とした出稼労務者互助組合が組織され、出稼者の親睦と人材養成がめざされた(『大阪朝日新聞』32・10・26)。
 漁業の出稼ぎでは、丹生・坂井郡沿岸部の漁村を中心に、北海道やサハリン、カムチャツカ、朝鮮へむかう者が多かった。坂井郡鷹巣村では、四月から一一月、あるいは地元の漁を終えた七月から一一月の間、北海道のニシン漁場やカムチャツカの蟹工船などで働く者が多かったようだ(『大阪朝日新聞』34・3・10)。三〇年一一月には、不漁で帰村の旅費ができずにいた同村の出稼者七〇余名を、県水産試験場の福井丸が北海道まで救出にむかうという事件がおきている(『大阪朝日新聞』30・11・12)。漁業の出稼ぎは、それだけ不安定であったということができる。



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