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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    三 農村の副業と機業
      農村の副業
 一言で農村の副業といっても、その内容はきわめて多種多様であった。さきにみた養蚕や製糸、製炭業なども、福井県の農村における代表的な副業であった。
 ここで、とりあえず養蚕と製糸、製炭業に関するものをのぞいて、一九二九年(昭和四)段階における福井県の主要な副業品をあげてみよう。農産関係品では、だいこん・なす・にんじん・里いも・甘藷などの蔬菜類に、縄類・むしろ類の藁工品、こうり・バスケットなど杞柳製品、竹笠・竹細工の竹製品、たたみ表・ござなどの藺製品、さらに茶や葉たばこ、干し柿、柿渋、らっきょう、梅干し、つぐみ粕漬などがあげられる。林産関係品では、三椏・楮の製紙原料に、栗・油桐・杉皮などの樹実や樹皮類、そのほかおうれん・まつたけ・たけのこなどがあった。さらに畜産関係品では、にわとりと鶏卵、水産関係品ではコイやウナギの養殖魚に、乾物・塩漬け類、うに、わかめなどの加工品があげられる。このほか、雑工品として手漉紙の産額も少なくなかった(『福井県の副業』)。
 農家の副業において、その主力であった養蚕と製糸、製炭業が恐慌の大打撃をうけたことは、さきに述べたとおりである。しかし、副業のすべてが凋落したわけではなく、恐慌期にも相当の利益をあげたものがあった。たとえば、その一つに「越前もっこ」の名で全国に知られた土砂運搬具の縄もっこがあった。その主産地は、今立郡北新庄村と北日野村の周辺地域で、製造戸数は専業・副業をあわせて約八〇〇戸あり、好況時には年間約六〇万枚、金額にして三万円を稼いだという(『大阪朝日新聞』31・7・25)。ちょうどこの時期、失業救済や農村救済を目的とした土木事業の実施により全国的な需要が高まり、増産にいっそう拍車がかかったのである。元来、縄もっこのような藁工品は、農閑期や降雪期「冬ごもり」の余剰労働力を利用して営まれてきたもので、福井県ではもっとも普及した農家の副業であったといえる。縄・むしろを中心とする藁製品は、古くから海運に欠かせない梱包材料として、藁の取れない北海道に多く移出されていた。
 また、葉たばこの耕作も恐慌の影響がおよばなかった副業の一つである。その中心は、大野郡の勝山・大野町と坂井郡金津町の周辺地域であった。大野郡の場合は、勝山、大野両藩の奨励で江戸後期にその栽培がはじまったと伝えられる。明治期には、喫味の辛さから「鬼ごろし」の異名をとった「勝山刻」の産地として知られた。昭和期に入って三一年には、在来種の「勝山葉」にかわって、両切紙巻たばこ「ゴールデンバット」の原料となる米国黄色種の栽培が本格化し、その時点で郡内一一か町村にわたり約一三〇〇人の耕作者と約一六〇町歩の耕作地を有していた(『勝山市史』通史編3)。
 とくに葉たばこは、他の農産物とちがって、明治後期から専売制度がしかれ、政府により栽培品種と耕作面積が割り当てられ、収納に対しては公定代金の「賠償金」が支払われるというシステムがとられていた。したがって、恐慌下にも耕作農家は比較的安定した収入を得ることができたのである。三二年末に支払われた賠償金は、反あたり一二〇円であった。これは、米作に比して二倍から三倍の収益にあたり、農業恐慌のさなかに新聞紙上でも「煙草黄金時代」の到来が騒がれたのである(『大阪朝日新聞』32・12・7)。もちろん周辺農家のたばこ耕作熱は、いっきに上昇し、以後専売局に対して耕作地の増配を求める陳情が止まなかった(『勝山朝日新聞』32・9・1)。
 これ以外に、今立郡北中山村を主産地とし都市デパートへの進出の著しかった竹細工、丹生郡朝日村西田中を主産地とし全国有位の産額をもった杞柳(細工)製品、坂井郡浜四郷村を主産地とし「本邦一」の産額をほこった花らっきょう(樽詰・缶詰)なども、当時としては有利・有望な副業品とみなされていた(『福井新聞』33・11・28)。
 農業恐慌のもとでは、農業収入の減少を補うために農家の副業に対する関心は否応なしに高まった。副業に関する情報の問合せが殺到し、県当局も一時は書面の回答に苦慮するありさまであった(『大阪朝日新聞』31・11・7)。三二年七月には、農村の経済更生策の一環として、多角経営により不況の緩和をはかるという趣旨から、副業の奨励に力が入れられた。そこで、副業農家でつくる組合の出荷・販売統制の拡充や、販路拡張をはかる見本市の開催がすすめられたが、見本市では大都市のデパートや、三三年四月に敦賀港から直航ルートで結ばれた満州市場に売込みのターゲットがあてられた。また三四年には、一村一種の農村工場の設立が提唱され、助成金をもとに数か村で木材や農産物の加工が試された。



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