目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    一 農業恐慌の波紋
      都市への対抗意識
 陸軍特別大演習を目前にした一九三三年(昭和八)六月二〇日、大本営の設置のために県庁の移転先に予定していた福井中学校が、何者かの放火により一夜にして焼失した。その対策は、大演習を終えた一一月に議論されはじめたが、県立中学校の再建の是非をめぐって県と福井市の主張が正面から衝突することとなり、これに対する郡部の動向が注目を集めた(以下、『大阪朝日新聞』)。
 問題の発端は、大達茂雄知事が学校整理案、すなわち鯖江女子師範に併置されていた鯖江高女を武生高女に合併、女子師範もまた福井高女に併置し、鯖江女子師範の跡に福井師範を移し、この福井師範の跡地に福井中学校を移転するという原案を示したことにあった。この案は、県立学校の整理統合を行うことで福井中学校の新築を回避し、県費の支出をおさえて県民の負担軽減をはかることに最大の根拠をおいていた。しかし、これに対して、師範学校の市外への移転を嫌った福井市が、猛烈な反対運動をおこしたのである。
 一一月一七日には、市会議員を中心に各種団体長、区長、同窓会幹部ら八〇〇名からなる福井師範移転反対期成同盟会を結成して、市民大会の名のもとに「一、教育根本精神の擁護を期す」「二、福師移転絶対反対」「三、福中即時新築を期す」の三項目を決議し、さらに目的を達成するまでの「県税不納」を訴えた。また、福井市婦人大会も師範移転の絶対反対を声明し、知事との交渉にあたったが、県は福井市の要望に対して断固方針を翻そうとしなかった。
 この県と市の緊張した対立関係が続くなか、郡部の意向が表明されはじめた。そのトップを切ったのは敦賀郡町村長会と丹生郡村長会で、敦賀郡の場合は郡部各村長の意見一致にもとづき、知事あてに原案支持の激励電報を発したのであった。これについで、県町村長会も県民の負担軽減に賛同するとの趣旨から知事案の支持を表明し、その後、三方、南条、遠敷、足羽、今立郡の町村長会があいついで知事案支持を決議した。県と市の対立が、さらに郡部と市の抗争にまで発展する様相をみせたのである。
 こうした郡部の動きの背景には、後述する大野郡小山村が負担軽減を訴える陳情書のなかで、「本県の如きは、其の沿革に於ても、実際の施設に於ても、商工中心、市政擁護の支柱にして、農村の振否、地方の盛衰は殆んどこれを眼中に存ぜざるの概あり」と赤裸々に述べたように、県政のなかで農村・農業対策が軽視されているという被害者意識があった(旧小山村役場文書)。これが長引く農業恐慌のもとで、不況からの回復が早かった都市・商工業への妬みや対抗意識ともなり、等しく県民であるという論点を押し立てて、負担軽減のための自粛、すなわち学校整理を求める声となったのである。地方税制においても、都市の商工業者に比べて農村地主の負担が大きく、これ以上、農村が都市の犠牲になる必要はないという認識が広がっていた。
 翌三四年二月の福井市会における予算説明の場では、市長が「本市と県下農村とは唇歯輔車の関係にあり、相提携し共存共栄をはからねばなら」ないことをことさら強調し、福井中学校の新築にあたっては農村の負担を考慮して市が巨額の寄付を行うことを言明した。これは、まさに郡部の了解を求めるための発言に他ならなかった。しかしその直後、市に隣接する足羽郡村長会が、県町村長会の学校整理案支持の姿勢が不十分であるとし、同会からの離脱を唱える事態となった。郡部の都市に対する感情は、そうは簡単に払拭できるものではなかったのである。
 結局のところ、福井中学校をめぐる学校整理案は、同年暮れの県会で審議未了となり、その対策は中央政府の裁定に委ねられることになった。そして、三四年三月にいたり、ついに内務省から福井市の寄付を前提とする福井中学校の新築案が提示された。あくまで原案執行を譲らなかった大達知事は翌四月に辞職し、大局的には福井市側のいい分がとおるかたちで学校問題は幕を閉じたのである。
 ちなみに、都市と郡部の関係は、同年秋ごろに機業の織機に対する県税「機台税」の賦課の賛否をめぐり、ふたたび意見の対立をみた。大筋でいえば、機業に依拠する都市側の課税反対論と農業に基盤をおく郡部側の課税賛成論の衝突であった。このときは、機業家が県に寄付金を出すという妥協がはかられたが、機業の農村進出にともない、都市と郡部の利害はより複雑に絡み合っていった。両者の間に一線を画すことはできなくなったのである。これも、恐慌からの脱出過程で明らかになった福井県の都市・農村関係の大きな特徴である(第一章第二節三)。



目次へ  前ページへ  次ページへ