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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第二節 農業恐慌と農村社会
    一 農業恐慌の波紋
      農村社会の対応策
 農業恐慌の襲来に山村・漁村を含む地域の農村社会は、どのような反応を示したのだろうか。あらためてその動向をみてみよう。
 明治期以来、地主を中心とする地域農業の基幹団体であった農会は、郡農会を単位に米価の暴落対策を政府に要望した(『福井県農会報』31・11)。その内容は、外米輸入関税の引上げ、朝鮮・台湾米の移入調整、政府による米の大量買上げ、政府所有米の海外輸出などの対外策と、米の乱売防止、裏作の奨励、自給肥料の増産、副業の振興、勤労主義の鼓吹、一般消費経済の緊縮、生産物の共同販売、必需品の共同購入などの対内策の実施を求め、他方で農家の負担軽減を訴えるものであった。その下部組織であった町村農会のレベルでは、「農政に理解ある議員の選出をはかれ」「農村困憊の理由は為政者の施政方針の誤りだ」「官吏は優遇せられ農民は困憊している」「官吏の減俸を断行せよ」などと、さらに現状の行政施策をきびしく糾弾する声が上がっていた(『大阪朝日新聞』30・11・11)。また、一部の町村では農会自体の廃止を求める動きもみられ、大野郡農会のように町村の負担金を軽減し、大幅な予算削減を余儀なくされたところがあった(『大阪朝日新聞』30・12・10)。農会は一方で、内部の足並みをそろえることに懸命とならざるをえない状況におかれていたのである。
 また、各地で農村・農民の負担軽減を訴える村民大会の開催があいついだ。吉田郡西藤島村では、一九三〇年(昭和五)一〇月一八日に村内の善照寺で村民大会を開き、村民四〇〇名が負担軽減の決議を携えて県庁に押しかけた。知事不在のため内務部長と面談し、衣類その他日用品の購入・飲酒・冠婚葬祭の冗費支出の廃止、各戸電灯の半減、物貰い・押売り・寄付金の拒否などの村民としての対応策と並んで、県に対して納税の分割、官公吏員の年末賞与金の全廃、明年度県予算の節約(四〇〇万円以内)、政府に対して官公吏員の減給、地租の低減を求める決議書を提示した(資11 一―一〇六)。
 ここで、各地の村民大会等で採択された対応策をいくつかあげてみよう。その一つに電灯の半減、廃止がある。村の街灯や各戸の電灯を消す動きがかなり広がっていた。たとえば、大野郡下庄村の中津川区では家事の都合で点灯する六戸をのぞく残り四〇戸が電灯の廃止を申し合わせており、吉田郡河合村では電灯を最小の電球につけ替えることを村民大会で決議している(『大阪朝日新聞』30・10・30、11・9)。
 また、さきの西藤島村でもみられるように、「物貰、押売、一般ノ寄付ハ堅ク御断リ」などという文句を玄関先に掲げる農家がふえていた(『福井県農会報』30・11)。それも、印刷されたビラを貼っていたらしく、村民が結束して村外への出金を拒否する構えをみせていたのである。
 さらにもう一つ、自転車の使用廃止を訴える動きが広がっていた。三〇年一〇月、坂井郡木部・本荘の両村は、「自転車があるために市街地に出て金をつかひ、また高い自転車税を課せられる」との二つの理由から、自転車の廃車を決議した(『大阪朝日新聞』30・10・31)。当時福井県は、「自転車税地獄」と悪評されるほど、全国でも自転車税の高い県として知られ、坂井郡吉崎村のように隣接する石川県大聖寺町で鑑札をうける抜け道策を講じるところもあった(『大阪朝日新聞』31・9・19)。また坂井郡のある村では、自転車の廃止と同時に、町へ買物に行くことを制限し、着物は買わない、食べ物は自給自足する、バリカンを購入して共同散髪を行う、新聞・雑誌を共同購入するなどの、徹底した倹約の実行を決議していた(『福井県農会報』30・11)。自転車の廃止は、税負担の軽減をはかるばかりでなく、農民にとって都市での浪費を抑制する手段として提唱されていたのであり、自給自足の生活への復帰をめざすスローガンのようでもあった。
 逆にいえば、それだけ農村社会が都市商工業の大きな市場と化しつつあったのであり、農業恐慌のなかでその実態を知らされた農民が反動的な防衛策を講じたのである。農産物に比べて、日用品物価がそれほど下落しなかったことが、この動きをいっそう助長したのであった。
 このような農村の倹約運動が、三〇年から翌三一年にかけて、連鎖反応のように各地に広がっていった。これは、政府や県に負担軽減を求める農村・農民側の強いアピールであり、勤倹主義の実践を質に、為政者側から農村救済策を引き出そうとしたのである。



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