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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    四 地方財政の推移と都市計画
      町村合併の動き
 昭和期に入ると都市計画法の実施や町制施行の動きともからんで、南条郡の北杣山・南杣山・南日野の三村合併を県が勧めるなど町村合併の機運が高まっていた(『大阪朝日新聞』27・12・8)。しかし、現実には各村の利害調整がつかず、実際に町村合併がなされたのは、昭和恐慌が町村行政にも打撃をあたえはじめた一九三一年(昭和六)になってからであった。
 同年四月一日に東安居村の三ツ橋地方が福井市に編入され、同月一五日には猪野瀬村が勝山町に合併された。
 また、四月一日には坂井郡新保村が、三国町との組合役場を設置した。なお、前年の三〇年二月一一日には、松岡村に町制がしかれた。
 三ツ橋地方の場合は、二〇年(大正九)の国勢調査で戸数七四世帯、人口三四三人であったのが、三〇年の編入時には六〇六戸、二三六九人にまで膨らんでいた。同年に市立福井商業学校が移転するなど急速な市街地化による福井市への編入であった(『大阪朝日新聞』31・3・27)。また、大野郡猪野瀬村の場合は、町有林などの基本財産が豊かで織物業の展開していた勝山町に合併することによる公課負担の軽減が大きな理由であった。それに対して、新保村の三国町との組合役場設置は、陸軍廠舎の廃止やながびく不漁のため、疲弊の激しい同村の村財政の行詰りが最大の理由であり、高等小学校も三国町に委託することになった。
 地方税制の改正のあった三一年には、県はふたたび町村合併を積極的に勧奨した。とくに、坂井郡の坪江村と剣岳村、吉崎村と北潟村、遠敷郡の小浜町と雲浜・西津村、大飯郡の本郷村と大島村の四つの合併には県官を派遣し、合併準備委員会が設置されるなど、新聞報道ではいまにもまとまるかのようであった。また、この年には敦賀町と武生町で市制実施準備委員会が設置されていた。しかし、村有財産や負債の処理、新村名などで利害が対立し、恐慌による貧弱行政村の打撃を町村合併によって克服しようとする県の計画は一頓挫し、その救済は時局匡救事業を中心に行わざるをえなかった(『大阪朝日新聞』31・8・5、12・4)。

表16 昭和戦前期の町村合併

表16 昭和戦前期の町村合併
 なお、三五年四月一日には、雲浜・西津村が小浜町へ合併、翌三六年五月一日には和田村が、一〇月一日には木田村がそれぞれ福井市に編入された(表16)。それらは、都市計画がらみの合併や編入であり、翌三七年四月一日の敦賀町と松原村合併による敦賀市制の実施も同様であり、本格的な町村合併は戦後に持ち越されることになった。



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