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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    四 地方財政の推移と都市計画
      都市計画福井地方委員会の活動
 都市計画法の指定により、都市計画福井地方委員会が設けられ、第一回の委員会が一九二八年(昭和三)五月三日に県庁参事会室で開かれた。同委員会は知事が会長となり、県会議員二名、市会議員三名、それに六名の県官・市長・市吏員および学識経験者から構成されていた。委員名列や同委員会が県内務部土木課内に置かれていたことからもうかがえるように、この都市計画は市よりも県が主体となって進められた。
表15 福井都市計画区域の人口(1930年)

表15 福井都市計画区域の人口(1930年)
 まず、同委員会は福井都市計画区域決定の作業を行い、二九年一一月二六日、内務省の認可をうけた。前述したように福井市周辺でも都市化がゆるやかながらも進行していたことをうけて、都市計画区域には、福井市のほか足羽郡木田村と和田村および東安居村と社村の一部、吉田郡の円山東村と円山西村および西藤島村の一部が指定された(表15)。内務省へ提出した「福井都市計画区域理由書」は、現在の交通機関により三、四〇分以内にして市の中心部に到達できる範囲を基本とし、さらに福井市における人口増加の傾向、地形、行政区画などの関係を考慮して決定したと述べている。区域面積は三七・七四平方キロメートルにのぼり、福井市のおよそ八・五倍であった。また、表15によれば、都市計画区域の現住人口は約八万七〇〇〇人であったが、標準人口密度を一人あたり市部二〇坪、郡部六〇坪とするときは約二二万人が収容できるとしていた。
 その後、三二年一〇月七日には都市計画の要となる福井都市計画街路が認可決定された。路線数は三七でその延長距離は約九〇キロメートルにおよび、総工費も約一八五八万円にのぼるという大計画であった。図4にも明らかなように福井駅前を中心として国道一二号線、重要府県道福井松岡線など八線を平均一五メートル幅の道路に拡幅・新設して、この八線を中心に放射線と環状線が配置されるというものであった。また、付帯計画としては、濠埋立てや学校の移転により、旧福井城址を中心に駅前通りから城町宝永町一帯にわたり総面積およそ一万坪にのぼる近代的な公園地帯を形成する計画案も立てられていた(『大阪朝日新聞』30・5・7)。
図4 福井市の都市計画図

図4 福井市の都市計画図

 また、三七年五月には「市街地建築物法」第一条の規定による地域指定が内務省より認可された。図4にみられるように、都市計画指定区域を住居・商業・工業地域および未指定地に四区分し、都市の発展に秩序をあたえようとした。商業地域は、もっとも殷賑であった足羽川両岸、北陸線鉄道橋以西花月橋にいたる一帯の地四一二ヘクタールで、全体の二〇・九%を占めた。工業地域は地下水が豊富でかつ良質な橋北(足羽川以北)の北陸線の東部、橋南の北陸線および福武電気鉄道の沿線、さらに西部の社村と東安居村地内の田畑一八九ヘクタールで、全体の九・六%にあたった。そしてこれらの土地の周辺部に住居地域八七七ヘクタール(全体の四四・六%)を配置し、市の東南隅旧木田村、旧和田村および円山東村の各一部や北部西藤島村の一部の農耕地は、現在では将来の用途の予測が困難であるとして未指定地(四九〇ヘクタール、二四・九%)とした。
 さらに、翌三八年四月には、道路網立案時にも検討された公園設置などの課題にも応えるため、「福井都市計画風致地区」として、「福井城址風致地区」「足羽山風致地区」「足羽川風致地区」の三地域一八五ヘクタールが、「風致ノ毀損」を防ぎ「景勝ヲ保育」するために指定・認可された。
 しかし、こうした福井都市計画地方委員会による都市計画には事業遂行の財政的裏付けがなく、都市計画事業の進展は戦前期においてはほとんどみるべきものがなかった。計画の中核をなす道路網の整備においても、実際には三三年秋の陸軍大演習実施のために、県道福井加賀吉崎線を市の中心部に直通させるため田原町から高等工業学校前間が、都市計画事業として事業費約一五万五〇〇〇円で竣工したのみであった。そのため、福井商工会議所による事業の促進運動が起こされたこともあったが委員会の動きはにぶく、福井都市計画街路事業の執行年度割が決められたのは、対米英開戦の翌四二年一一月であり、その計画も戦争の深刻化のなか中止を余儀なくされた。こうして、実際の事業は戦後の福井市特別都市計画事業の遂行を待たなければならなかったのであるが、図4をみても明らかなように、昭和戦前期の都市計画の原則は現在まで引き継がれている。
 なお、三三年には都市計画法が改正され、その指定を町村にまで拡大したことにより、県下でも、三四年六月に敦賀町と周辺四村が指定をうけたのをはじめとして、多くの町村が都市計画法の適用をうけることとなった。翌三五年には武生と大野、勝山が認可をうけ、それ以降も三六年には小浜、三七年芦原、四〇年金津と大飯郡の本郷、四二年森田と県下では九つの都市計画が内務省より認可されていた(「昭和八年公文雑纂」、『大阪朝日新聞』36・2・18、「大正昭和福井県史 草稿」)。



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