目次へ  前ページへ  次ページへ


 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    四 地方財政の推移と都市計画
      福井市の都市化
 明治維新以降、一時衰退していた城下町福井は、一八八一年(明治一四)の福井県設置で県庁所在地となり、さらに八九年四月には市制が施行された。一方では明治二〇年代以降、絹織物業が急速に発展し、福井市は地方における政治都市と経済都市の両面をもつことになり、人口も増加に転じた。
  表14によれば、市制施行時、約四万人であった福井市の人口は、明治末年には五万人をこえ、さらに大正末年には六万人に達した。県の人口がこの間ほぼ六〇万人で停滞していたなか、福井市は一・五倍の増加をみていた。同市では、一九一二年(明治四五)三月にガス事業が開始され、一九年(大正八)には市議会が四か年の継続事業で総工費二四〇万円の上水道事業案を可決した。このほか越前電気鉄道や福武鉄道など私鉄の市街地乗入れが実現し、市営住宅・公設市場・職業紹介所なども建設、設置されていた。

表14 福井市と周辺7村の人口推移

表14 福井市と周辺7村の人口推移
 さらに、表14によれば、後年都市計画区域に指定される福井市周辺七村の人口が、明治年間はほぼ停滞していたのが、一九一〇年(明治四三)から三〇年(昭和五)の二〇年間に一・二九倍に増加している。すでに一七年七月には金沢監獄福井分監が足羽郡木田村へ移転し、その後も二四年四月に福井高等工業学校が吉田郡西藤島村牧ノ島で開校し、翌二五年四月には日本赤十字福井支部病院も市の南端月見町に開設されており、福井市および周辺諸村の都市化がゆるやかながらも進行していた(通5、『稿本福井市史』)。
 また、こうした人口増加や都市化は就業構造の変化をもたらしていた。図3は、二〇年(大正九)と三〇年(昭和五)の福井市および周辺七村の職業別就業者数の比率を表わしている。福井市では第一次世界大戦後の一〇年間に、それまでわずかにあった農業などの第一次産業就業者はほぼ皆無となり、また、絹織物業など工業(第二次産業)就業者も四三・〇%から三八・八%へと減少している。これに対して、商業者は二九・一%から四一・四%に著増し、公務員や交通業などを含めた第三次産業従事者が全体の六割に迫っていた。
図3 福井市と周辺7村の就業構造

図3 福井市と周辺7村の就業構造
注) 『大正九年国勢調査報告』、『昭和五年国勢調査報告』による。

 他方、福井市周辺七村では、工業従事者の比率が顕著に増加しており、とくに木田村では二七・〇%が五四・三%へと比率は二倍以上となった。これに対して、農業従事者の減少は著しく、七村全体ではその比率が六割からほぼ四割にまで低下していた。また、商業や交通業従事者や公務員などの第三次産業従事者も福井市ほどではないが、増加傾向にあった。
 なお、このほか県下では、表14にみられるとおり、一八八九年の町村制施行時から大正末年にかけて、武生町が約一万四〇〇〇人から約一万九〇〇〇人へと増加し(一・四一倍)商工業都市として、また敦賀町が約一万五〇〇〇人から二万一〇〇〇人へと増加し(一・四二倍)港湾・商業都市として、それぞれ展開をみせていた(『県統計書』、『大正十四年国勢調査概要』)。



目次へ  前ページへ  次ページへ