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 第一章 昭和恐慌から準戦時体制へ
   第一節 昭和初期の県政と行財政
    四 地方財政の推移と都市計画
      地方債と国庫補助金の増加
 一九二〇年代後半からの「優良農具普及奨励規則」「副業奨励規則」「自作農創設維持補助規則」など農業その他の産業奨励に関する法令、「不良住宅地区改良法」「公益質屋法」などの社会立法の施行にともなう国政委任事務の増加は、確実に国庫補助金を増加させた。とともに、表13にみられるように、敦賀港の改築や実業補習学校の新設なども加わり、県債、市町村債の伸びは国庫補助金の伸びを大きく上回っていた。

表13 地方財政における歳入の推移

表13 地方財政における歳入の推移
 こうしたなか、田中内閣の積極的財政政策に対して、一九二九年(昭和四)七月に、金解禁政策の実施を至上課題として成立した浜口内閣は、きびしい緊縮財政政策を打ち出した。二九年度県予算も実行予算に組み替えられ、とくに県債は前年度の一五三万円が五七万円にまで縮小された。
 しかし、三〇年一月の旧平価による金解禁政策断行は、昭和恐慌をより深化させ、失業者の増大をまねいていた(第一章第一節五)。三一年度予算として、前年度のほぼ三倍にあたる約六〇〇〇万円の失業者救済事業資金が計上され、福井県でも同事業に県予算の六%にあたる三七万円が投入された。そして、国庫補助金と地方債によるこの事業は、恐慌がピークに達した三二年からは斎藤内閣による時局匡救事業へと引き継がれていった。
 三二年度から三四年度の三か年間に、時局匡救事業には中央政府の事業費約五億六〇〇〇万円と地方の事業費約三億円の総額約八億六〇〇〇万円が投入された。それに、農家負債整理などの各種低利資金の融資八億円を加えると、広義の時局匡救費は一六億円をこえる巨額なものになっていた。
 この時局匡救事業に関しては、県歳出として三か年に約四三〇万円以上が投入されたが、それは三か年の県歳出二三四六万円の一八・三%にあたった。これに、経常・臨時の土木費や災害土木復旧費、北川改修費、失業救済事業費、産業開発土木費などを加えると、県歳出の三三・七%にあたる約七九〇万円の巨費が土木関係事業に投入されたことになる。さらに町村歳出でも三か年に約二三五万円の匡救事業費が支出されていた(第二節二)。
 こうした時局匡救事業費を中心とした公共事業への巨額の資金投入は、国庫からの交付金や地方債の起債によりまかなわれたため、当然のこととして、歳入に占める県税や市町村税の比率はますます低下し、国庫からの補助金や地方債がよりいっそう膨らむことになった(表13)。
 この時局匡救事業は三四年度で打ち切られることになるが、財政基盤の弱い地方団体にとっては、同事業に代わるなんらかの国庫資金投入は行政運営上不可欠の要素となっていた。そして、地方からは、特定事業への一律な国庫補助だけではなく、、すでに三一年ころから内務官僚によってとなえられていた財政調整交付金制度導入の要望が高まっており、三四年一月の第六五議会には政友会、民政党などの政党が調整交付金に関する法案を提出していた。
 とくに注目されることは、わずか五年前の田中内閣の時代に、地方分権的な見地から両税(地租と営業税)の地方への委譲法案を衆議院では成立させていた政友会までが、調整交付金の必要性を主張したことである。調整交付金は三六年から実施されることになるが、それは財政政策において政党の支持をとりつけた新官僚の政治的影響力が、財政面を通じて、より強力に地方にまで浸透していくことを意味することになる。
 



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