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 第六章 幕末の動向
   第二節 若越諸藩の活動
    三 北蝦夷地「開拓」と大野丸
      蝦夷地「開拓」の発端
写真157 内山隆佐像

写真157 内山隆佐像

 土井利忠は安政元年五月十日参勤のため大野を出立し、六月三日に江戸に着いた。二十四日には外桜田門番の命を蒙ったがこれを無事に勤め上げ、翌二年暇を賜って六月二十五日江戸を発駕、七月十三日に帰国した。この度は内山隆佐が道中目付に任じられて利忠と行を共にし、内山七郎右衛門は先述のように大野屋の開店に忙しく大野に留まっている。十月には八月二十九日から上方へ行っていた七郎右衛門が帰国、十一月六日には十月二十四日仕立ての江戸屋仁三郎からの飛脚が到着し、安政大地震や右に述べた「蝦夷地在住」のことなど、公儀の書付一七通が入った「御状箱」がもたらされた(「御用留」土井家文書)。
 十一月九日隆佐は上方に出発したが、十二日大生仁右衛門が列座(大野藩の重臣会議)において「蝦夷地在住」に関する書付を披露した(「御用留」土井家文書)。大野藩士が蝦夷地「開拓」許可のことを知ったのはこの時が最初であり、おそらくここで意見の遣取りが多少はあったと思われるが、立ち入った議論は隆佐の帰国を待たなければならなかった。
 十二月九日、上坂中の内山隆佐が緒方洪庵門下の俊才伊藤慎蔵を伴って帰って来た。「北蝦夷地開拓始末大概記」(土井家文書)によれば、十二月十五日、七郎右衛門と隆佐の主導の元に有志が明倫館に集まって協議し、それを利忠に上申して裁可を得て、隆佐を幕府との交渉係にして江戸へ派遣することにしたとある。隆佐は供を二人連れて、次に述べる伺書を懐に十二月二十五日大野を出立して江戸に向かった。



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