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 第三章 商品の生産と流通
   第二節 鉱工業の進展
     三 打刃物と鋳物
      南条郡の鋳物師
 南条郡鋳物師村は天正十八年の「大谷刑部少輔殿様府中郡御知行分惣目録」(宮川源右ヱ門家文書 資6)に、すでに村名がみえ、慶長三年(一五九八)の「越前国府中郡在々高目録」(馬場善十郎家文書 資6)や「正保郷帳」「元禄郷帳」「天保郷帳」にもそれぞれ村名と村高が記されている。しかし、この村に鋳物師が就業していた時期は明確でない。
 村の伝承によれば、この村の元村は、現在地よりさらに東北方向の日野山寄りにあって、今から五〇〇年ほど前に鋳物師が大勢来村し、不動山やおとばみから掘り出した鉱石を原料にして、鋳物業に従事したという。鋳物師村は上区と下区に分かれており、下区の住民は不動山やおとばみから産出した鉱石を精錬する業にたずさわり、上区の住民は「型」を作って鋳造の業に従事し、現在でも「うちかた」(内型)、「そとかた」(外型)の別名で呼ばれている家が存在しているという(『南条町誌』)。
 日野山の周辺には、南条郡金屋・金粕・牧谷・平吹、今立郡金山など金属生産に関する地名や遺跡が多い。近世以前に鋳物師村またはその近辺で鋳物業が営まれていた可能性は高いと考えられる。
 また、同郡上平吹村の枝村である島村には、寛永十一年(一六三四)と万治三年(一六六〇)に鰐口や梵鐘を鋳た記録があるが、「島に於いて」とあることから考えて他所から鋳物師が出職に来て鋳造したと思われる(日野神社鰐口銘)。しかし、正徳四年には、島村の鋳物師林太兵衛・林次右衛門の二人が真継家から再興の免許を受けており、鋳物師が存在したことが確認できる。その後中絶したが天明元年(一七八一)に両家の子孫が再び免許を得て稼業した。翌二年に今立郡稲寄村妙稲寺の梵鐘が同村で鋳造されている(「越前釜(一)」『越前文化』六号)。
 文政期には鋳物師林治右衛門の名があり、幕末から明治初年にかけて林太平・沢崎新右衛門・林市左衛門等が稼業していた(「諸国鋳物師名記」名古屋大学文学部国史研究室所蔵文書)。明治九年武生市帆山寺の梵鐘に「林多兵衛尉正寿」の銘があるが、その後島村の鋳物師は衰退した。



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