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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    五 外国船の来航と対外関係
      若狭来航の南蛮船
 応永十五年(一四〇八、明の永楽六年)と同十九年に若狭に南蛮船が来航したことは著名な事件で、「税所次第」に次のように記している。
応永十五年六月二十二日南蕃船着岸、帝王の御名亜烈進卿、蕃使使臣問丸本阿、彼帝より日本の国王への進物等、生象一疋黒、山馬一隻、孔雀二対、鸚鵡二対、其外色々、彼船同十一月十八日大風に中湊浜へ打上られて破損の間、同十六年に船新造、同十月一日出浜ありて渡唐了、同十九年六月二十一日南蕃船二艘着岸これ有り、宿は問丸本阿弥、同八月二十九日当津出了、御所進物注文これ有り、
 応永十五年来航の南蛮船について「若狭郡県志」には、南蛮船使臣は黒象一匹以下を持参し京都にいたって将軍義持に献じ、十一月小浜を出船したが大風のため中湊浜に打ちあげられ破損し、翌十六年造船して小浜を出て帰国したと記されている。この南蛮船は、「旧港」すなわち ・Palinbang(インドネシアのスマトラ島のパレンバン)の華僑の頭目で明朝よりパレンバン宣慰使に補任された施進卿の派遣した船である。亜烈または阿烈は「元史」にみえる阿里と同じく回語(ウイグル語)で大の義、アラビア語 ・Ail の音訳であろうという。さてこの南蛮船派遣については、他の地域よりの遣船とする異説もあったので、このころのパレンバン船の来航の事実を挙げて補足しよう。
 応永二十六年に、施進卿のあとを継いだ施済孫の派遣と推定される南蛮船が南九州に着岸した。同年八月から翌二十七年二・三月にかけて、九州探題渋川道鎮と探題職を継いだその子義俊は、領内に南蛮船が停泊したと推測される阿多氏に対して南蛮船を博多へ回航させるよう促している。三月に島津氏の軍勢の来襲があり急遽南蛮船は出航し、四月博多に廻航した。九州探題より幕府に報告したさい幕府から出された指示どおりに兵庫へも廻航したかどうかは未詳であるが、廻航の途かあるいは帰国出航の前後かに破船したらしい。琉球の外交文書を編集した「歴代宝案」によれば、翌二十八年渋川道鎮はパレンバンの施主烈智孫が派遣した使者一行を琉球に送り、琉球より逓送帰国させることを琉球側に求めたが、当時琉球・パレンバン間の国交はなく、暹羅(タイ)への遣船に便乗させ暹羅より転送することになった事実が知られる。施進卿は永楽十四年(応永二十三年)春のころまでは生存したが、その後まもなく没したようで、同十七年(応永二十六年)ころその子済孫は頭目の地位を継いでおり、同二十一年(応永三十年)に宣慰使補任を明朝に請願している。応永二十六年南九州に着岸した南蛮船は施主烈智孫の派遣で、智孫は済孫Chi-Sunで、主烈は室利・偲俚などとも書き梵語のSriである。
 応永十九年小浜来航の南蛮船は、派遣地は未詳であるが、パレンバンの施進卿による派遣の可能性はあろう。室町初期約三〇年ほどの期間に、暹羅・爪哇(インドネシアのジャワ島)などより、華僑の頭目らの手により日本・朝鮮へ来航した船のあることが知られる。しかしそれ以降、十六世紀中ごろに日本の商船による南海往来が興るまでの一世紀あまり、日本本土と南方諸地域との直接交渉は倭冦の影響などを受けほとんどみられなかった。



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