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第五章 中世後期の経済と都市
   第二節 日本海海運と湊町
    四 湊の領知と守護大名領国制の進展
      禁裏料所小浜
 応永十九年十二月に管領細川満元が若狭守護一色義貫に充てた御教書は小浜着岸の鉄船の公事を内裏へ直納するよう命じているが、この命令は翌二十年三月に小浜へ通達されたといい(「税所次第」)、このとき小浜は禁裏料所であったらしい(応永年間すでに料所であったという論もあるが、史料上確認できない)。
 文明九年八月六日、若狭守護武田国信は公家の広橋兼顕に対して、禁裏料所である小浜月充(御供料)については「国之儀有名無実」の状態であったので他の料足をもって毎月進納していたと在国の代官が述べていること、今月分は強く命じて両三日中には進納するからその間は供御に支障なきよう計られたいことを伝えている。十月六日に兼顕が参内すると、小浜年貢九月分が未進となっているので、勧修寺と兼顕の両人より使者を遣し催促するようにと命じられている(「兼顕卿記」同日条)。このころは武田国信が禁裏料所小浜より毎月の御供料進納を所管していたのである。
 ところで一色氏は永享十二年(一四四〇)に若狭の守護職を失うが、小浜住人のなかには一色氏の被官人が存在し、一色氏の勢力基盤は保持されていた。寛正四年(一四六三)には小浜において武田氏被官と「一色左京兆被官若州小浜住人等」が船とその積荷を奪い売却した問題で争っている(「政所内評定記録」)。こうした勢力を背景として、丹後守護一色義直は文明十六年ころ幕府より小浜支配を認められた。しかし同十八年八月ころ小浜を禁裏料所とし、一色義直の小浜支配をやめさせて、もとのごとく在国の若狭守護武田国信に申し付けるようにという後土御門天皇の勅命があり、幕府がその命を実行したため、面目を失った一色義直は同月二十八日に丹後に下国したとされている(『長興宿記』同年八月二十七日条、『後法興院記』同年八月二十八日条)。
 そののち文亀二年四月二日には、飯川氏と結んで小浜月充を未進していた武田元信が催促に応じて納入したとある(『実隆公記』同日条)。享禄元年九月六日には守護武田元光が納入した小浜公用六か月分が京着し、これで前年分は皆済されたとあり、翌七日には若狭料所公用到来について先に書状などを元光に送るなど斡旋に尽力した三条西実隆に朝廷より酒が与えられている(同 同日条)。
 天文十九年十月、山科言継が若狭へ下る飛鳥井雅綱に渡した書によると、根本料所稲積荘より納付すべき月充銭は前年十二月・当年正月・二月分までは納められているが、三月分以後は未進とある。稲積とは今富をさし、根本料所は小浜料所をさすようである。十一月に飛鳥井より書状が言継のもとに届き、三月分より五か月分にあたる一五〇貫文を進納しようとあり、一〇日余過ぎて届いた書状には、まず二か月分、すなわち三月・四月分六〇貫文は進納するが、残りは調達しがたいと記されている(『言継卿記』同年十月十五日・十一月十三・二十六日条)。



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