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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第七節 中世前期の信仰と宗教
    一 越前・若越の顕密寺社の展開
      僧侶の妻帯
 平安期の末になると顕密仏教の世界でも妻帯が一般化し、真弟相続(実子相続)が広範に登場するようになる。弘長三年(一二六三)の公家新制は、顕密僧が「妻妾を蓄えて」いることを批判しているが、他方では破戒僧も重要であるとして、その放逐には踏み切っていない。朝廷ですら、顕密僧の妻帯を実質的に容認していたのである。とはいえ、すべての顕密寺院で妻帯が行なわれていたわけではない。東寺のように、供僧の不犯を原則とする寺院も存在していた。
 こうした顕密僧の妻帯状況を生き生きと伝えているのが、「若狭国鎮守一二宮社務代々系図」(資9 若狭彦神社文書二号、以下「社務系図」と略)である。「常満供僧月静房妻」「常満供僧桑心房妻」「常満供僧多田慈心房妻」「常満供僧但馬房長祐妻」「常満供僧薩摩阿闍梨長玄妻」とあり、一宮宜一族との女性で常満供僧と結婚した者が何人もいる。しかも常満供僧が宜一族の間で実子相続されていたことも明瞭にうかがえ(図13)、鎌倉初期から国祈所の常満供僧が妻帯していたことがわかる。また、国分寺供僧も妻帯していた。鎌倉期の国衙祭祀の中枢たる一・二宮および常満供僧・国分寺供僧・小浜八幡宮宜は、婚姻関係を通じて緊密に結びついていたのである。 
写真70 若狭国鎮守一二宮社務代々系図(部分

写真70 若狭国鎮守一二宮社務代々系図(部分)

 しかも興味深いことに、「社務系図」では妻帯していない僧侶に特別な注記をしている。「聖たるの間、子なし」(泰賢・舜憲・宗弁・頼盛)、「神宮寺住侶の間、聖なり、仍て子なし」(頼賢)と記載されていたり、さらには「早世の間、子なし」(周防房)と記される例もあって、僧侶とはいえ妻帯しないのが例外であったようだ。時代は降るが、越前の平泉寺の僧侶も「大半は」妻帯していた(『蔭凉軒日録』明応二年三月二十五日条)。
 では「社務系図」は、なぜ妻帯していない僧侶を「聖」とよんだのだろうか。一般に顕密仏教の僧侶は、僧正・僧都・律師、法印・法眼・法橋という国家的官位体系に属していた。それに対し、遁世して国家的官位体系から離脱した人びとを「聖」「聖人」「上人」とよんでいた。ところが「社務系図」で「聖」とされた人物はいずれも、「山僧肥前注記」「山僧大和房」「多田弁房、常満供僧・多田薬師堂別当」「神宮寺住侶」「大和阿闍梨」といった肩書きをもっており、顕密僧であって遁世僧ではない。つまり彼らは本来の意味で「聖」だったのではなく、ここでの「聖」の語法は比喩なのである。
 当時は俗人も僧侶も、遁世したならば性的禁欲を貫くものと考えられており、夫婦が一緒に出家する例も多かった。つまり遁世した聖は妻帯しないのが通常であった。もちろん現実には聖の妻帯が進行しており、「カクスハ上人、セヌハ仏」との発言すらみえている(『沙石集』)。しかしなお聖・上人は一般の者とは異なって性的禁欲を貫くものとの社会通念が生きていた。そのために「社務系図」では、顕密僧でありながら妻帯しなかった人びとを「聖」とよんだのである。ちなみに親鸞が妻帯した事実は著名であるが、延暦寺僧のまま妻帯するよりも、遁世僧となって妻帯することの方が社会的軋轢は大きかったはずである。
 「社務系図」にはもう一点、興味深い事実がある。ここに神宮寺の僧侶が二人登場するが、いずれも「神宮寺住侶、聖たる間、子なし」(頼盛)、「神宮寺住侶の間、聖なり、仍て子なし」(頼賢)と記されていて、二人とも妻帯していない。特に後者の事例では、神宮寺の僧侶が妻帯を禁じられていたようである。若狭国の祈秩序の中核を占める常満・国分寺供僧が妻帯していたのに対し、神宮寺のように妻帯を禁止した寺院も存在した。鎌倉中期以降、神宮寺が再発展していった要因の一つはここにあった。



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