一国内の仏事や仏教行政は、古代では国講師と国司とが共同してあたっていたが、十世紀になると国司の権限強化のなかで国講師の権限は解体し、以後、国司が部内寺社を管轄することになった。それに対し国衙支配の強化に抵抗する寺社のなかには、大野郡平泉寺のように中央の権門寺社と本末関係を取り結び、その権威をかりることによって国衙と対抗しようとした。こうして院政期には延暦寺などの末寺が全国に展開し、地域の宗教行政は国司と本末関係との対抗のなかで進展していった。こうしたあり方に一つの転機をもたらしたのがモンゴル襲来である。
モンゴル襲来の危機のなかで、幕府―守護体制は国司の権限を吸収し、部内寺社に対する祈 命令権を掌握することになる。弘安の役の翌々年の弘安六年(一二八三)十二月に、若狭をはじめ八か国の寺社で異国降伏の祈 を行なうよう、幕府の下知が出ている。これを受けたのが当該八か国の守護北条時宗であるので、この命は全国の守護に通達されたとみてよい。また正応五年十月にも、一宮・国分寺および主要な寺社で異国降伏の祈 を行ない巻数を進めるよう、守護に下知が出ている。その命は守護代を介して地頭・御家人・預所に通知され、それぞれの領内の主要寺社で祈 して十一月中に巻数を進めるよう通知している(リ函一九)。こうした史料が太良荘の文書群とともに東寺に伝えられていることや、遠敷郡明通寺にも延慶三年(一三一〇)の降伏祈 が守護代・税所代の連署で通達されていることからすれば(資9 明通寺文書七号)、幕府の異国降伏祈 は現地の隅々にまで伝達され、全国一斉に実施されたといえよう。これまで一部の例外を除いて、幕府が直接一宮・国分寺や地方有力寺社に祈 を命じたことはなかったし、またこれほど大規模な祈 を繰り返し行なったことは朝廷でもない。対外的危機のなかで幕府は宗教政策の面でも権力集中を行ない、一宮・国分寺への祈 命令権を掌握したのである。 |