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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    四 北陸道合戦
      治承のクーデターと越前
 クーデターの引き金の一つは、同三年十月後白河法皇が重盛家の知行国であった越前を院分国とし、側近の藤原俊盛・同季能の父子を知行国主・国守に据えたことにあった。越前では同年七月に亡くなった重盛のあとを受けて、嫡子維盛が知行国主になっていたのである(資1 「玉葉」同年十一月十五日条)。重盛は一門主流派と違って後白河との協調を志向していた人物であるが、その家が多年にわたって確保してきた知行国をすら押収するというのは、平氏に対する公然たる挑発に他ならなかった。
 クーデター後、平通盛が越前国守に返り咲いた。知行国主の名は伝えられていないが、重盛(維盛)家の退潮は著しかったから、通盛の父教盛が知行国主に就いたものと思われる。教盛は清盛の兄弟のなかでは、兄に最も忠実でその活躍を期待された人物であった。
 治承四年春、摂津大輪田泊(神戸市)の新たな改修が計画された。日宋貿易は平氏のもう一つの経済的基盤である。これまで幾度かの改修が平氏の私力によるものであったのに対し、今回はクーデター後の彼らの地位を反映して、国家権力を挙げてのものとなった。工事計画の中心となる人夫の動員は、瀬戸内周辺諸国の人民を強制雇用するなど大がかりなもので、荘園領主・民衆の激しい抵抗が予想された。しかし平氏は武力を用いても断固実行しようと考えており、朝廷に提出された実施要望書に平氏の筆頭軍団長とでもいうべき平貞能の名前が添えられてあったのは(『玉葉』治承四年二月二十日条)、その強行姿勢をちらつかせるものだったろう。
 計画にあたり北陸・山陰には人夫動員の割当てがない。日本海沿岸の湊から西に向かい、下関を廻って瀬戸内海を経て大坂に達する航路(西廻航路)が開かれた近世とは違って、大輪田泊の改修が北陸・山陰地域の海運にとって実益がないからであろう。だが、さほどの便数があるとも思えない東海道諸国の入港船の乗組員も人夫として奉仕させる予定であったから、平氏の最も強力な基盤である地域が動員計画からはずれているのは見過ごせない。敦賀と琵琶湖を結ぶため重盛に深坂峠を掘り切らせようとしたという近世の口碑は(「北窓瑣談」)、事実とはみなせないが、敦賀経由の輸送路を改修する将来的な計画があって、北陸・山陰を動員計画から意図的にはずした可能性は考えられないだろうか。
 



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