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 第一章 武家政権の成立と荘園・国衙領
   第一節 院政期の越前・若狭
    四 北陸道合戦
      平氏と後白河院の対立
 清盛は仁安三年(一一六八)病によって出家し、家督を重盛に譲るが、以後も摂津福原(神戸市)の別荘にあって政局を左右し続けた。この年清盛室の妹滋子を母とする高倉天皇が即位し、承安元年(一一七一)には清盛の娘徳子(建礼門院)が天皇の後宮に入った。平氏は摂関家にも近づき、清盛の別の娘盛子を近衛基実と結婚させ、基実が早世すると摂関家領を手中におさめた。
 しかし宮廷内外にわたる平氏の強引で急激な勢力拡大は、後白河院や摂関家など既成勢力の反発をまねき、治承年間(一一七七〜八一)に入ると、鹿ケ谷事件など平氏と院の暗闘が表面化する。後白河方の圧迫と平氏の院権力からの自立の動きが交錯するなかで、治承三年十一月清盛は軍事クーデターを敢行し、反平氏方貴族を大量に処分した。また院政を一時停止し、軍事独裁政治を開始する。
図3 平氏の知行国

図3 平氏の知行国
 注1 養和元年(1181)2月ころの状況を示した。
 注2 平氏の家人が知行したものも含む。

 平氏は「一門の公卿十六人、殿上人三十余人そのほか諸国の受領・衛府・諸司、都合六十余人」「日本秋津嶋はわずかに六十六箇国、平家知行の国三十余箇国、すでに半国をこえたり」といわれるように王朝の要職を集中し(『平家物語』)、知行国および一門が国守を握る国ぐにを飛躍的に増加させる。そのほか多数の荘園を所有し、その数全国五〇〇余か所といわれた。さらに翌四年二月には高倉天皇が譲位し、徳子の生んだ安徳天皇が即位して、ここに清盛は天皇の外祖父の地位を得た。このクーデター以後が厳密な意味で平氏政権の時期といわれるゆえんである。
 



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