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監修のことば
 『福井県史 通史編2 中世』は通史編全六巻の第二冊である。本巻は平氏政権より戦国末期の朝倉・武田両氏の滅亡までを叙述する。導入として平安末の院政期、また両氏滅亡直後の越前・若狭の状況にも論及している。
 さて試みに、日本中世史上に顕著な役割を果たし特色あると思われる事項を、「政権・支配」以下四点挙げ、それぞれ二、三の問題についてふれてみよう。
 まず「政権・支配」についてみれば、越前・若狭は畿内に隣接し、政治支配上重要視された。保元・平治の乱後平氏が台頭して一門の両国国守が続き、背後には一門の知行国主があった。鎌倉幕府も領国支配に留意したが、越前では在地の有力御家人は重用されず、若狭でも同国御家人の抑制に努めた。かくて在地人との紛争が絶えなかったが、若狭ではモンゴル襲来ののち、守獲である得宗を中心に勢力が強化された。
 南北朝分立期にあたり、越前は南朝方振興の一拠点の役割をもち、南北朝両軍攻戦の場となった。斯波高経は越前守護となり、一時失脚するが、その子義将は管領に任じられ三管領家中で家格も高く、越前守護職を世襲する。若狭は京都に近いため諸事波及・影響することが多く、南北朝期に守護交替もしきりに行なわれ、やがて四職家の一色氏が守護となる。
 さて越前では、英林孝景のとき朝倉氏は一乗谷を拠点に足羽・坂井両郡に基盤を固め、応仁の乱に際して自立し、一乗谷を本拠に戦国大名への途を進めることになった。若狭守護は永享十二年(一四四〇)武田信栄が一色氏に代わり、四代元信の晩年ころより若狭に多く居住して領国支配を強化し、その子元光のとき後瀬山に城を築いた。
 永禄十一年(一五六八)武田氏の若狭支配も終わり、その家臣も織田信長のもとに多く結集する動きをみせる。天正元年信長は朝倉氏をも滅ぼし、やがて一向一揆を平定して、柴田勝家は北庄に築城し北陸をも控制する地歩を占めることになる。
 つぎに「社会・制度」の問題に関して顕著な事柄としては、平安末期より鎌倉期にかけて、畿内に近接した越前・若狭において院領・公家領・寺社領の荘園が成立し、特に越前では多数の広大な荘園が設置されたことが挙げられる。著名なものに興福寺兼春日社領の河口・坪江荘がある。南北朝期ころより本所への年貢・供料等の納付が欠怠するようになり、在地武士の代官請負制も広く行なわれて貢納物押領も増加し、やがて朝倉氏の戦国大名化とともに衰亡へ傾くこととなる。若狭でよく知られた荘園に太良荘があり、鎌倉中期に東寺領となる。武田氏の戦国大名化の時代とともに、やはり崩壊の途をたどる。河口・坪江荘とともに関係史料は多く伝存し、荘園研究に寄与することが大きい。
 鎌倉後期には荘園・公領のうちに、名主を代表とする自治的な統合をしたムラが形成され、いくつかのムラを単位とした惣村が展開し、惣百姓としての活動が顕著となる。若狭には他に類の稀な鎌倉期以来の浦・漁業関係の文書が伝存する。浦の生業として、漁業・製塩のほか廻船業もみられた。浦人の頭として刀祢があり、網場は浦の惣有ともなるが、やがて特定の網場の権利が浦の有力者の手に帰属する傾向がみられる。
 次に「産業・交通・都市」に関する問題についてふれる。若狭は若狭湾に臨み、丹後とともに日本潅漁業の先進地といえる。前述のように、浦・漁業に関する鎌倉期以来の古文献の伝存は珍重に値する。鎌倉期に諸種の網漁業がみられ、戦国期には大網も発達している。
 伝統産業の例として、室町中期に越前五箇の鳥の子類、ややおくれて奉書類が都にも知られている。ともに和紙中の名紙として知られた。
 府中より日本海に面した河野・今泉浦を結ぶ西街道、そして敦賀との間の海路は交通路として人馬往来・物資運送もさかんであり、室町・戦国期の史料も多い。琵琶湖東岸を北上し、椿坂峠・栃ノ木峠を越えて今庄に出る北国街道は、戦国期には注目され、近世初期には宿駅なども整備された。
 さて山城は南北朝期より本格的な築城が想定されるが、戦国期にはさらに発達する。朝倉氏が拠った一乗谷には山城が築かれ、やがて城下町が形成された。その戦国大名化とともに城下町の発達をみ、義景のとき全盛期を迎える。近年の発掘調査により、朝倉館・武家屋敷・町屋・寺院跡など町割・区画も明らかとなり、代表的な戦国期城下町として知られる。
 中世に入り、物資の輸送・売買が増大し、それに徒事する廻船業の発達によって、三国・敦賀・小浜の湊町が繁栄した。小浜では室町初期以来問丸の発達が跡づけられ、敦賀では室町中期に廻船業中心の船仲間の座の成立がみられる。
 つぎに「宗教・文化」に関する事柄を述べる。越前では中世に泰澄を開基と伝える寺院が栄え、平泉寺・豊原寺は広大な寺領と多数の寺坊・衆徒を擁して勢威をふるったが、他方で工芸の場ともなった。若狭では中世に栄えた真言密教系寺院のすぐれた仏堂建築が現存している。
 日本曹洞宗開立を宣揚した道元は、寛元元年(一二四三)越前志比荘に来り、翌年大仏寺(のち永平寺)を建立する。永平寺三代徹通義介は越前の人で、寺内での対立より退き、大乗寺(金沢市)に入り、門下に越前の人瑩山紹瑾がでて総持寺(石川県門前町)の開山となるが、その門流により曹洞宗は広く発展する。
 本願寺八世蓮如は吉崎(金津町)に文明三年(一四七一)居を定め、山上の本坊を中心とし多屋(宿望)が建てられた。越前には蓮如入国以前に、大町専修寺如道とその門下の三門徒派の活動など、真宗系の地盤がかなり強く築かれていた。しかし蓮如の教化により北陸に真宗本願寺派の弘布する基礎が確立した。
 朝倉氏の文化については、一乗谷へは文人・学者・学僧らの来遊招聘があり、近年の発掘によれば諸器物・道具類の出土も多く、朝倉氏を取り巻く文化的生活や信仰が察知される。若狭の武田氏も代々好学にて歌道にも通じ、都の文人・学者と交流し、またその来遊も少なくない。
 芸能として越前では鎌倉末期より猿楽がかなり行なわれ、尉面製作を得意とする面打もでている。若狭では南北朝期より室町初期にかけて気山座の猿楽がさかんであった。これに関連のある江村伊平治家文書(三方町)は貴重な史料といえよう。幸若舞は十五世紀中ごろ京都に出て武将らの愛顧を受け、織豊期より大名の支援を得て流行した。その本拠は越前の田中郷(丹生郡西田中の地域)といわれる。
 本巻は二三人の執筆担当者の原稿からなり、正副部会長と執筆者により数回の原稿検討・調整を経たものである。本巻の構成についてあえて申さば、「政権・支配」と「社会・制度」は鎌倉・南北朝・室町戦国期の三期に分け、「産業・交通・都市」と「宗教・文化」は中世を前後の二期に分けて叙述しているとしてよいであろう。前述した部門別の諸項目は気づくままに恣意的に若干をとりあげたものに過ぎないが、もとよりこれらを含め、本巻の叙述は史資料に遺漏なきを期し、実地の踏査や近時の遺跡・遺物の発掘調査の成果をも加えて、精細周到に考述したものである。                                     
 擱筆するにあたり、執筆・編集および校正にあたられた諸氏に厚く敬意を表し、史資料の収集・提供に支援協力を賜わった各位に深く感謝の辞を捧げる次第である。
 

 平成六年三月
                                       小 葉 田 淳



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