先に述べたように、もともと越前・加賀・美濃という別々の地域で白山に対する信仰が独自に発展していたわけであるが、やがて律令国家の成立にともない地方間の連絡が密になると、共通の信仰を有する人びとがほかの地域にも存在することを認識するようになった。さらに、仏教思想の影響を受けて白山が従来の遥拝する存在から修行の場としての存在へと変化する。『白山之記』によれば、天長九年(八三二)にこの三つの馬場が開かれたとある(『資料編』一)。年代の真偽はともかくとしても、平安初期にはその麓である越前・加賀・美濃に登路口が開かれて馬場と称し、それぞれの馬場から白山に登る道を白山本道あるいは禅定道と称するようになった。
越前と美濃の馬場は白山中宮、加賀の馬場は白山本宮を中心とし、それぞれの別当寺として越前平泉寺・美濃長滝寺・加賀白山寺が存在し、白山修験の拠点として繁栄した。これらの別当寺は、やがて多数の僧兵を抱える有力な寺院となったが、古代から近世を通じて栄枯盛衰を繰り返し、明治初期の神仏分離を経て、現在では越前馬場の中宮平泉寺の地に白山神社(勝山市平泉寺)、加賀馬場の本宮に白山比 神社(石川県鶴来町)、美濃馬場の本地中宮長滝寺の地に白山神社(岐阜県白鳥町)が建っている。
これら三つの地域の信仰は、平安時代にしだいに融合的に捉えられるようになった。越前の馬場では、地元麻生津出身の僧である泰澄が行場としての白山を開き、また地元に平泉寺をはじめ多くの寺院を建立したとする伝えが広まっていたが、本来この泰澄という越前の僧とは関係のなかったはずの加賀や美濃の馬場においても、越前と同様に泰澄を白山信仰の祖とする観念が受け容れられるようになっていった。このような動向は、中央における神仏習合の発展、とくに平安後期の本地垂迹の観念にもとづく習合の動きに触発されたものと考えられている。 |